茶の湯の千利休 切腹する

 
千利休
 
1591年の今日 2月28日に
千利休さんは切腹して果てました。

日本の茶道の祖にして 
有名な割には謎の多い千利休。

個人的には 武士でもないこの人が
どうして「切腹」なんていう
最期を遂げたのかが 最大の謎です。

戦国時代はまだ武士の形式など 
確立する前だったのかもしれませんが

それにしても なんで
「切腹」だったのか釈然としません。

とはいえ…すでにもう400年以上もの
時間が経ってしまっています。

研究してるわけでもないし
手掛かりもないし あってもわからんし。
どうにもならんですよ。

ムダな考察も 一興ということで
お付き合い下さいませませ。^^
 

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蜜月から決裂まで 何があった…?

 
天下人と真正面からぶつかって
不興をかい 極刑に処せられるなら

他の形だって少しも不都合は
ないと思うのだけれど…。???

千利休さんは堺の商人だったそうですね。

だから目も鼻も利いたし 
計算も頭の回転も早かったのでしょう。

茶室なんていう小宇宙に 
客と対峙することで相手の本質やら

思惑やらを鋭く観察していたことと
想像しています。

ちょっと得体の知れない怖いところが
あるような気がします。

たぶん贅沢で華美な物や豪華な物は 
昔から見慣れていてそういう所には 

あまり気持ちが動かされなかったのかなと。

ほら、美人は三日見ると飽きるけど 
不美人は三日見れば慣れるって
言うじゃあないですか。

絢爛豪華なものって ほおお…と思うのは 
最初に見たその時だけなんですよね。

あるいは手に入れてしまえば 
すごいと思わなくなるというか。

まして商人ですからね、
商う品にいちいち入れ込んでいたら
商売になりません。

むしろより高値を吹っ掛けるには 
どうするかと考えるのではないでしょうか。

品物の豪華さや珍しさは 
客の気を引くきっかけであり 

商人の目的は お客に品物を買って
もらうことにあるわけですから。

一方の天下人にまで
上り詰めた秀吉さんですが 

農家の生まれといわれていますから
もともと豪華絢爛な物品には
縁のなかった人なのです。

力の象徴として豪華な物品を求め 
それを誇示することが必要だったのでしょう。

派手好きは生まれ持っての性分と 
成功を収めてからの力の誇示・象徴の
両方だったかもしれませんね。

成功に成功を重ね 
ますます派手になっていく秀吉さんと 

茶の湯を突き詰めれば
突き詰めるほど無駄や華美をそぎ落とし 
質素な実用美に行き着いた利休さん。

後世の私から見れば核を成す感性が 
正反対の二人が出会ってしまったことこそが 

悲劇の結末を迎える遠因だったのでは
ないかとさえ思えるのです。

感性の違いは主観の違いでもあり 
それぞれが譲れない状態だったのですかねえ。

単純に感性のすれ違いというか行き違い 
その程度だけだったのでしょうか?
 
 

謎は謎しか呼びませんがな…

 
まあ天下人の意向に沿わないことを
表だってやらかしたのなら 
怒りをかうこともあるかもしれませんけど。 

諸説あってそこらあたりが 
あまりはっきりしないということは

いろいろ思い当たることがあり過ぎるのか 
あるいは本当にある日突然怒られたのか…?

例えば秀吉さんに言われたことが 
利休さんにしてみれば 返事として

すべてNo!としか言えないような
ことばかりを要求され続けた…とか?

利休さんの娘を側室に差し出せとか 

わびさびといった地味~な趣味を止せとか 

本拠地である堺の何かを差し出せとか 

あるいは何か内緒の
儲け仕事をしてたとか…。

もともと利休さんは
信長さんに仕えていた人で 

秀吉さんとのお付き合いは
「本能寺の変」の後からでしたからねえ…。

茶人としてのわびさびの境地も 
実は秀吉さんと付き合うように
なってからのことだし

もしかすると 初めから
ボタンの掛け違いというのは 
あったかもしれませんね。

あの信長さんとも対峙してきた人だけに 
自分を貫き通す強さは持っていたでしょう。

恐らく…ですが「理」の人
だったのかなあと思います。

秀吉さんが天下人になって
イロイロ要求してきたことも 

自分の「理」に合わない事柄ならば 
のらりくらりと かわし続けて
きていたのかもしれませんね。

で、秀吉さんにしてみれば 
何でも自分の思い通りになる
立場になれたはずなのに 

色よい返事もよこさず 
それどころか有力な大名すら

弟子にしてしまう利休さんの存在は 
何とな~く痛痒い存在になっていき…

ついに些細なことでキレちゃった…とか?

もっともらしく伝わる理由としては 
何とかいうお寺の山門に安置した
利休さんの木像は雪駄履きで 

秀吉さんをはじめ来訪者が 
その土足の下を通るようにしたことが
許せんというものらしいのですが… 

人を死に追いやる理由としては
弱過ぎるような気がするけど…。

ダメなら 別の場所に移させるとか 
やめさせるとかすれば
済む話じゃないですか。

それとも利休さんが
絶対ここに置くんだあとか 
こっちもむちゃぶりしたんでしょうか?

…まあ 天下人を怒らせては
いけないという教訓にはなるけれど 
なんだかなあ…。

しかもその利休さんの像は 
今でもちゃんと残っているそうですし…。

何で…どうして…?

利休さんは どんな気持ちで
「切腹」を受け入れたのでしょうか…。

秀吉さんは長年懇意にしてきた 
いわば友人ともいえる利休さんに対して 

本当はどのように
思っていたのでしょうかねえ…。

ちょっと思うのは 利休さんと
仲良くお付き合いしていたころが

秀吉さんの人生も上り調子で
良かったんでないかいと。

利休さんが亡くなって8年後には 
秀吉さんもそっち側へ
行ってしまいますけれども

謎は謎のまま歴史の大波の
間に揺れている方が 
謎っぽくていいのかもしれません。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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