今日は「地図の日」、最初の一歩の日~~!

地図の日

 

まあタイトルでだいたいの想像はつくと思います。

そうご明察の通り今日は
伊能忠敬さんが蝦夷地の地図を作るため
測量の旅に出発した日であり それを以って
「最初の一歩の日」とさせてもらいました。

時は1800年(寛政12年)閏(うるう)
4月19日のことでした。

ひとつお断りさせていただきますが
今のカレンダーにはないので
この「閏」というの あまり
深く考慮していません。ゴメンナサイ。

伊能忠敬さんのすごいところは
この足で歩きながら測量をして
詳細な海岸線の地図を作るという

偉業を成し遂げたのが 50歳を過ぎて
隠居した後だったという点です。

つまり余生のなぐさみのはずが
偉業として結実したんですね。
 

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偉業達成は 隠居した後のこと

幼少期はあまり家庭的に
恵まれなかったようですけれど
17歳で土地の名家 伊能家へ
お婿に入ることになります。

それだってちゃんと読み書きそろばんを習得し
真面目な性格だったので見ている人はちゃんと
見ていてくれていたからなのです。

特に数学はよくできたみたいです。

やっぱり数学ができないと測量とかは
難しいでしょうねえ
私が全然わからないわけですわ。(..)

で 婿入り先の事業もよくやったし
浅間山が噴火して 関東から東北地方まで
火山灰で えらいことになった
「天明の飢饉」という大災害が起きたのですが

その時も身銭を切って
困窮者たちを救済したので
この地域からは餓死する人が
出なかったと伝えられているそうです。

人として与えられた人生をきちんと
やり遂げた上で 息子に家督を譲り
隠居した後 さらに
もう一花咲かせちゃったんですね。

というか 隠居した後の方が
大きなことをやり遂げちゃっていますから。

隠居する以前から測量みたいなことを
する経験は積んでいたようです。

伊能家は利根川水系の天領で
佐原というところの名主さんでした。

暴れ川だった利根川は
幾度となく氾濫を繰り返したのです。

氾濫のたびに田畑の境が 全く
分からなくなってしまうので 測量して
また区分けをするということも昔から
繰り返されてきたのでした。

このあたりをみると やっぱり天職
だったのかもと思わされますね。

立派な功績を残した人だったので
隠居したいんだけどって
何度も申し出たのですが すぐには
OKしてもらえなかったそうです。

暦学とか 天体観測を
どうしてもやりたいし~と言って
50歳の時江戸へ行きます。

 

イロイロ都合もよかったらしい

そして当時民間で暦学などを研究して
成果をあげていた麻田剛立一門の
高橋至時さんという19歳も年下の人に
弟子入りして 勉学に励みます。

当時で暦学などを学ぶ人たちには
西洋のティコ・ブラーエの
天文学を取り入れた書物とか
ケプラーの理論が入った書物とか
ちゃんとあったみたいですよ~。

長崎あたりでこっそり
手に入れたんでしょうか。(^艸^)

実は暦学ってトップシークレットで
一般の人は誰も知らない仕事だったのです。

でもちゃんと学問として 体系立てて
学ばないとだめなので これらの書物は
幕府がどこからか「正式」に
手に入れたものだったと思われます。

そして忠敬さんは天体観測も
こまめに続けました。

観測用の機器は師匠の同僚が
詳しかったので 教えてもらったり
購入したりしたそうです。

さらに近所の大工さんに頼んで
自宅に観測機器を設置してもらい
悪天候でない限り 太陽の南中と
星を観測し 記録しました。

このころ江戸幕府は ロシアが
蝦夷地へちょっかいを出してきて
やだなと思っていました。

そしてほぼ同じころ この年齢の
逆転している師弟は 子午線1度の
正確な距離を計算して
出したいなあと思っていました。

ですがその計算をするには
より長距離間の計測が必要だったのです。

ちょうど江戸と蝦夷地の距離ぐらいの、
ちょっと簡単には測れない距離の計測が…。

考えてることが 普通の人と
全然違ってて すごく面白いですね。

忠敬さんは年齢こそ55歳でしたが
しっかり勉強していて
優秀だし何より裕福でした。

いろいろな思惑が一致して
忠敬さんは蝦夷地への
測量の旅を許されるのです。

忠敬さんが最初に測量をしたのは
蝦夷地だったんですね。

こうして最初の一歩は踏み出されました。

 

考えていることのスケールが違う

幕府としては 蝦夷地まで船で行ってよと
言ったのですが(時間と経費の節約のため)

それだと子午線の計算をするための
データが取れないので
陸路を行きたいといって
幕府がそれを認めたようです。
(多くかかったお金は忠敬さんが負担した模様。)

そしてデータ収集しながら約21日かかって
津軽半島の最北端に到達しました。

さらに蝦夷地で117日かけて測量を行い
江戸にもどってくるまでの全行程は
180日にも及ぶ 大観測旅行に
なったのだそうです。

そして江戸に戻ると データをもとに
およそ20日で 地図を完成させ納品しました。

観測と地図について 師の至時さんも
これほどきちんとやれるとは…と感心し
褒めてくれたみたいですね。

ちなみに忠敬さんは子午線の1度を28.2里
(110.75km)と算出しました。

現代の計算からみても 極めて
正確な数字だそうです。\(◎o◎)/

そして足かけ17年という歳月をかけて
日本中の沿岸の測量データを取りまくります。

歳月もですけれども 日本の沿岸ですよ?
日本沿岸の総延長って どのくらいあるか
ご存知ですか?(世界で6番目です!)

それを足で歩いて 測量して
回ったんですからね、もお信じらんない。

実は忠敬さんご自身は1818年に
74歳で亡くなっているのですが

「大日本沿海興地全図」と名付けられた
巨大な地図が完成して 納められたのは
1821年のことでした。

膨大なデータをまとめて地図を作っている途中で
亡くなってしまったのです。

しかし年下の師の息子さんや忠敬さんの息子さん
お弟子さんたちが 彼の死を隠して作業を続け
この一大事業を完遂したのでした。

忠敬さんがもう10歳若かったら
自分の手で地図を完成させることが
できたかもしれませんけど… 十分ですよねえ
本当によくやってくれました。

いずれにしても すべてはこの偉大な
第一歩から始まったのです。

 
お読みいただきまして ありがとうございました。

 

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