今日は藤原頼通が関白宣下を受けた日

藤原頼道 関白に 障子窓

 
藤原頼道 関白に
 
1020年の今日 1月18日は 
藤原道長の長男で若干28歳の
頼通さんが関白の宣下を受けた日です。

父君の道長さんはたくさんいた娘たちを 
次々に入内させて天皇の外戚として 
権力を一手に握ってゆき 

不動の地位を築きましたが 
関白にはなっていないのです。

事実上の最高権力者でしたから
「御堂関白」とは呼ばれましたけどね。

最終的な決定を下すのは天皇なのですが 
そこへ行き着くまでの折衝というか

話し合いの相手をするのが
関白の役目なんですね。

つまり関白とは天皇とほぼ対等に
ものを言える立場だったのです。
 

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父君がこの上なく偉大でしたので…

 
なので本来であれば 公平で賢い人が
その立場に就くべきで 権力者の
世襲とかはあまりやらない方が
いいんですけども… 

まあ藤原家ですから。(~_~;)

頼通さんは はっきり言って
親の七光りでもって関白になりました。

ですが50年もの長い間 
その座にいた人でもありました。

お仕えした天皇も一条天皇 三条天皇 
後一条天皇 後朱雀天皇 後冷泉天皇と

5代にも渡りましたし この皆さんは
全員が道長さんの孫(外孫)たちです。

当時は入内した姫が懐妊すると 
実家へ戻って出産する
ならわしでしたので

全員が道長さん家で生まれている
天皇さんたちでもありました。\(◎o◎)/

頼通さんにとっても
姉や妹の息子たちに当たります。

今の感覚では はいい?
…というようなことを
道長さんはやらかしてますので。

親の七光りではありましたが 
頼通さんも長い宮仕えの
経験なども手伝って

50年もの間 関白の地位に
あり続けられたのだと思います。

ただ道長さんと違って 
自身が子供に恵まれなかったため 

父君のように天皇家の外戚に
なることができませんでした。

それでも養女にした姫を
入内させるなど努力はしたのですが

生れたのは姫皇子ばかりで 
しかもその母となった姫は
早逝してしまいます。

頼通さんの正室 隆姫は
村上天皇の親王の姫君で 
文才のある美人だったとか。

頼通さんとは大変仲が良かったそうです。 

後に別の皇女を頼通さんの所へ
降下させる話が持ちあがり 

正室一筋の頼通さんでしたが
断るわけにもいかず 
病に臥せってしまいます。
(平安時代の人ってすぐ病に臥せるよね。)

で、加持祈祷をしてもらったところ 
隆姫の父君の怨霊が立ち現われたそうで
皇女の降下は立ち消えになったそうです。

この時代に正室しかいなかったというのは 
大変珍しいことです。

道長さんにも
「なんで男のくせして妻が一人でいいわけ? 
子供もいないんだから 
早く後継ぎを作らんかい」と
怒らりちったりしてますがな。

んなこと言われてもねえ…。

もしかすると頼通さんは案外 気持ちの
真っ直ぐな人だったのかもしれません。

大きすぎるお父さんの存在は
重たかったんじゃないかなあ。
 
 

藤原氏の栄華にも少しずつ変化が…

 
トップに立っていた時間が
長かったこともあり 

道長さん亡き後には 
刀伊(とい)の入寇(朝鮮半島からの侵略)や

平忠常の乱 前9年の役など不穏な
情勢が相次ぎ それまでの
絶対的な権力の体制に揺らぎが
生じることになりました。

私たちのようにずっと後の者から見ると 
平安時代のもっとも安定していた時代に

一気にわーーっと登り詰めて 
貴族社会最後のきらめきが華やかだった…
最期に一瞬だけ強く華やかに光を放った…
そんな風にも思えます。

頼通さんといえば父君が建てた別荘を 
今に残る形で整備した人
としても知られています。

そう 平等院鳳凰堂ですね。

ですから頼通さんは「宇治殿」
とも呼ばれるのです。

そしてその約10年後
太政大臣に宣下され 臣下では
最高位を究めました。

でもすでに70歳だったので 
父君と同じように1年ほどで
職を辞しています。

さらに1067年には関白も辞して 
後任には弟の教通さんが任命されました。

そして後冷泉天皇が崩御されると 
頼通さんは宇治の屋敷に
引きこもってしましました。

あの平等院は 頼通さんの
ためだけにあったんですねえ。

1072年出家。

さらに2年後の1074年に
83歳の天寿を全うするのです。

この時代に80年を超える
長寿だったのはすごいことです。

途方もなく重たいものを背負った 
長い長い人生だったと思います。

同年と翌年に渡り 姉の彰子さん、
弟の教通さんも相次いで亡くなりました。 

このあとは帝位についたばかりの
白河天皇が譲位して始める「院政」へ 
そして さらなる武士の台頭へと
時代が移り変わっていくのです。

道長さんは自分の娘たちを使って 
天皇の外戚として権勢を振るったわけですが

不思議なことに息子である頼通さんには
子供がいなかったので 父君のような
むちゃくちゃなことはできませんでした。 

普通はやりませんけどね。

もしも子供がたくさんいたら 
50年も関白をやって
いなかったかもしれません。

実際には身内というか 一族で
政府を固めちゃってたわけですが 

それはそれで いろいろとうっとうしい
問題もあったのではないでしょうかねえ。(笑)

毎日親戚の人たちと
顔を合わせているわけで 
当事者でないとわからない
憂さのようなものもあったと思います。

思いの外 たいへんな
職場だったのかもしれないなと… 

私だったら家にこもって
出社拒否しちゃいそう。(´艸`)
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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