今日は「合衆国皇帝ノートン1世」が生まれた日

ノートン1世 生誕 ガラス窓

 
ノートン1世 生誕
 
米国に皇帝がいたなんて
知ってましたあ?

実はいたんです。おっと失礼 
皇帝はおいでになったのです。

ただ…残念なことに正確な
生年月日が伝わっておらず

ウィキペディアに今日の日付で
誕生と記載されていたので 
そちらに従いました。

皇帝なのになぜきちんと生年月日が 
伝わっていないのかについて…
そんな小さなことは
気にしないで下さい。

偉大なノートン1世陛下に
おかれましては 
些末なことでございます。

伝承によれば英国はイングランドのお生まれで
裕福な資産家で幼年期を南アフリカで
お過ごしになったようでございます。
 

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米国の皇帝って ちょっとヘン…

 
1849年に米国はサンフランシスコに
邸宅を購入して移住。

父君から受け継いだ遺産を運用し 
大変な財を築かれたとか。

ところがペルー米の投機に失敗して破産 
この頃から正気でなくなったとか。

いえ伝え聞いたことですので 
平民どものうわさにすぎません。

このお米の投機で破産した直後は一時 
お姿を消され行方不明になりましたが

のちにそれは「自発的亡命」であったと
陛下御自ら述べられています。

そして再びサンフランシスコの街に
戻られたのでございます。

1859年 9月17日 陛下は 
サンフランシスコの各新聞社に対して

お手紙という形でご自身が
「合衆国皇帝」であることを宣言なさいました。

―大多数の合衆国市民の懇請により、
喜望峰なるアルゴア湾より来たりて 

過去九年と十ヶ月の間サンフランシスコに在りし余、
ジョシュア・ノートンはこの合衆国の
皇帝たることを自ら宣言し布告す。

 ――合衆国皇帝ノートン1世 ―
              ―ウィキペディアより―

新聞社の多くはいたずらだと思って
取り上げませんでしたが

ある一社が ジョークの記事として
新聞に掲載したことから 
陛下の宣言は広く世に知らしめられ

この後21年に渡って
「新聞による数々の勅令」が公布され 

今日まで語り継がれる陛下の御世が
始まることと相成りましてございます。

初めは驚かれましたが 公布される
「勅令」の中には先進的な意見も含まれ

次第に人々の中に受け入れられていく
あたりが すごいんですけど。

冗談の記事はよくありますし 
市民もおおらかに受け止める
風潮があったのですねえ。

この人物は本当に自分を皇帝だと
思い込んでいたようで 

陸軍の軍人さんからもらった
金モールのついた軍服に勲章を付け 

羽飾りをつけた山高帽をかぶり 
ステッキをついて
サンフランシスコの街を
「視察」して歩いたそうです。

「臣民」のことを気にかけて 
様々なテーマで延々と
哲学的な講釈を垂れたとか。

所持金なんてほとんどないのに 
高級レストランで食事しちゃったりすると 

店のオーナーはちゃっかり
「合衆国皇帝ご用達」のプレートを
店の前に掲げたりとか

ほとんど悪ノリの状態…というか 
街全体が本当に特別扱いを始めるんですね。

ある私鉄の食堂車で食事をした
「皇帝」に対して 支払いを請求したところ
不興をかい「勅令」でもって
「業務停止命令」を出されてしまいました。

多くの市民が「皇帝」を支持したことに 
会社側が驚いて 謝罪した上に 
金色の「終身無料パス」を献上したとか。  

ある若い警察官が「皇帝」を逮捕して 
意に反して精神病の治療を
受けさせようとしたところ 

新聞社と市民から強烈な
抗議を受けたそうです。

署長はすぐに「皇帝」を釈放して
公式に謝罪しました。

寛大な「皇帝」は「大逆罪」にあたる警官を
「特赦」してくれたそうです。

サンフランシスコ市も
この「権力者」に敬意を表するように
なっていきました。

いつも着ている軍服が古くなってくると 
それを購入する分の支出をしたんですと。

すると「皇帝」は感謝状とともに
「終身貴族特許状」を発行してくれたそうで。
 
 

臣民に慕われていた皇帝

 
なんなの?みんなして。
悪ノリもほどほどにしときなさいよ。

もうね ここまできちゃうと
このノートンという人物が
異常なのか正常なのか
わからなくなってしまうものですね。 

本当はものすごい大金持ちだとか
ナポレオンのご落胤だとか 

果てはヴィクトリア女王と
結婚しようとしてるとか
当時から様々なうわさが
飛び交っていたそうです。

まあ 後に遺品の中からは 
本物のヴィクトリア女王と交わした書簡が
見つかってるそうですけども…。(~_~;)

1880年の 1月 8日の晩 
ノートン1世は講演に向かう途中で倒れます。

急いで病院に搬送しますが 
その途中で亡くなってしまいました。

翌日の新聞各紙は「皇帝」の崩御を伝え 
遠く離れたニューヨークタイムスまで
追悼の記事を載せたそうです。 

推定の享年は65。

遺品と言えるようなものは
ほとんどなく10ドルにも満たない
所持金だったそうです。

ここで市のビジネスマンたちが募金を行い 
最終的には荘厳な葬儀を執り行えるだけの
資金調達に成功し 3万人もの人々が
「皇帝」の棺を見送りました。

およそ50年ほど後 
ノートン1世のお墓は改装されて 

その墓標には
「ノートン1世 合衆国皇帝 メキシコの庇護者」と
刻まれているそうです。

本当に市民から愛されていたそうで 
今でも都だったサンフランシスコでは
追悼の式典が行われているとかいないとか…。

うそのような本当の話。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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