8月19日 ココ・シャネルの誕生日

ココシャネル生誕 ガラス窓

 
ココシャネル生誕
 
今日は世界的なファッションブランドの
創業者ココ・シャネルが生まれた日です。

1883年といいますから 
日本は明治時代でした。

私 特別ファッションに興味が
あるわけではないのですが

昔の版画イラストを使った
チラシというかポスターを
集めた画集を持っています。

ふわふわのダチョウの羽などが
ついた帽子とか 丈の長いドレス姿の
いわゆるオールドファッションですけれど 

絵が好みだったため つい出来心で
買ってしまったもので 時々眺めています。

見る限りですけど とても
動きにくそうですね。(笑)

さてココさんは 12歳で
お母さんと死別しているそうで

18歳になるまで孤児院などで 
育ったのだそうです。
 

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家庭的には恵まれなかった少女の出世物語

 
お父さんはいたのですが 
仕事が行商だったので
幼い子供の面倒をみられなかった
のかもしれませんね。

孤児院から出て お針子として
働きだしたようです。

なんとなく縁を感じますよね。

当時も女の子が自立していくには 
仕事は限られていました。

でもお針子の仕事は 
服がある限りなくなりませんし

ある種の技能者ですからね 
いわゆる「手に職」をつけたと言えます。

その頃お付き合いしていた
将校たちの影響もあったとかで

グラン・カフェで歌手になりたいと
思っていたんだそうです。

グラン・カフェというのが
どんな所か考えてみたのですが 

「将校たちの影響」というあたりから 
お酒を飲んだり ショータイム!を
楽しむ場所かなと…。

ところがオーディションには
落ち続けたそうで 結局 
歌手になるのはあきらめてしまいます。

このころキャバレーで歌っていた
歌から「ココ」と呼ばれていて 
この愛称をそのまま
名乗っていたのだそうです。

親にもらった本当の名前は 
大天使と同じガブリエルさんだそうですよ。

歌手をあきらめたココさんは 
彼氏さんと一緒にパリへ行きます。

この彼氏さんの牧場に
滞在したのだそうですが ここは
人が集まるちょっとした
社交場になっていたようです。

ココさんはすることがなかったので 
帽子をデザインしたんだそうですが

それがうけたというか 認められて…
たぶん人気がでたんでしょうね。

この彼氏さんも援助してくれて 
1909年に花のパリで帽子の
アトリエを開くことになります。

…ってさらっと書いてありましたが 
援助があったとしても 26歳の
田舎娘が突然パリの大通りにお店とか 
普通じゃなくてとんでもないんですけど。

何でしょうね この取って
つけたような急展開は?

その後も快進撃は続いて 彼氏さんは
英国人に変わりますが 翌年に
「シャネル・モード」という
帽子の専門店を開きます。

シャネルの出発点は
帽子屋さんだったんですね 

全然知りませんでした。

この後第一次世界大戦が始まるのですが 
そんなものどこ吹く風。

この頃の戦争は 母国や非戦闘員には
関係のない別世界のことでしたから。 

ついに「メゾン・ド・クチュール」を
オープンして コレクションを発表し
大成功を収めてしまいます。

1921年に発表されたのが 
シャネルといえばコレが代名詞の
「No.5」と「No.22」の香水でした。

そして数年後にはのちに
「シャネル・スーツ」として
発表される洋服の原形が
このころにできたのだそうです。

その後第二次世界大戦中は 
なんとヒトラーの側近の
愛人に収まっていて(◎o◎)

仕事もせず 優遇されて
暮らしていたとされています。

ドイツに占領されて一般の人たちは
窮乏生活を余儀なくされていた時に…です。
 
 

パトロン選びが半端ない

 
そしてシャルル・ド・ゴール率いる
自由フランス軍と連合国軍が
祖国を解放すると逮捕され

「売国奴」とフランス全土から
非難が集中したそうです。

そんな中 恐らく昔の彼氏さんつながりで 
知り合いだったのでしょう、

英国のチャーチル首相が
計らってくれて釈放されました。

ですがさすがに仏国に居ずらくなったらしく 
しばらくスイスに滞在しています。

そして1955年に有名な
「シャネル・スーツ」で
不死鳥の如く復活しますが

彼女のデザインを
受け入れてくれたのは米国でした。

私の私見ですけど
「シャネル・スーツ」は
とても機能的で 着る人を選ばないし
本当に基本的ないいデザインだと思います。

ココさん自身がとてもスリムな
体型の人だったので ファッションモデルは
みんな細くて背の高い人
ばかりになっちまったんですぜ。

というか プロのモデルさんたちは 
どんな服でも着こなせないといけかいから
結局そういう風になっちゃうのでしょうね。

特に○○コレクションとかで
発表されるデザインて 
か・な・り・独創的なので
普通の人には着れないし 中には
これ服なの?というようなものもあるし。

ほとんど芸術の域なのでデザイン画を 
そのまま生きた人間でやってくれる
モデルが必要だったんじゃないかと…。

こんな風に圧倒的な成功を収めていた
ココさんでしたが スイスから戻っても
住まいはホテルで 孤独感や不安に
苛まれる晩年だったそうです。

持たざる者には想像もできない
「持った人だけ」の孤独や
不安なのでしょうか。

1日に1本のモルヒネ注射が 
欠かせないほどだったそうです。

えっと…そのお薬はひょっとして 
かなり強い中毒性があったりしませんか…?

1971年 コレクションの準備中に
亡くなってしまいます。

時代的には当然でしょうが 
ココさんはいいパトロンに
出会えたのだなと。

本人は人に指図されるのが
きらいだったそうですが 

生き抜くためには 厳しい選択も
してきたのだろうと思います。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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