今日はマリア・テレジアが亡くなった日

マリア・テレジア 忌 ガラス窓

 
マリア・テレジア 忌
 
1780年の今日11月29日は 
ハプスブルク家を守り切った
マリア・テレジアが63年の
激動の生涯を閉じた日です。

マリアさんの父君は
神聖ローマ帝国の皇帝カール6世ですが 

当時としては珍しくマリアさん本人と妹の 
二人しか子供がいなかったので
(お兄さんがいたようですが夭逝)
婿養子を迎える形で王国を引き継ぎました。

そのため以降のハプスブルクさんとこは 
夫君の苗字も入って
ハプスブルク=ロートリンゲン
という風に名乗るようになります。

よく「女帝」といわれますが 
皇帝だったのは夫君であり

マリアさんの称号は正式には 
神聖ローマ皇后だったんですね。
 

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姫君が受け継いだのは大帝国

 
ただ実質的にオーストリア大公を引き継いだのは 
マリアさんの方でしたので 
政治の表舞台に立つことになったのでした。

当時としてはこれまた極めて珍しいのですが 
夫君のフランツ1世シュテファンさんとは
奇跡的な恋愛結婚だったのです。\(◎o◎)/

二人の出会いはマリアさんが6歳、
シュテファンさんが15歳の時のこと。

ロートリンゲン公の息子で
ウィーン宮廷に「留学」していたそうで

父君のカール6世にも気に入られて 
よい待遇だったそうです。

小さい時に よそから来ていた
ちょっとすてきなお兄さんを

素直にすてきと思っていたら 
憧憬がいつしか燃えるような
愛に変わっていたんですねえ。

お姫さまに生まれながら 
恋愛が成就したのは本当にすごいことです。

そして二人は1736年にめでたくゴールイン。

モザイクのような欧州の国々の 
複雑な力関係の大海へ漕ぎ出します。

なお父君はマリアさんには 
政治の教育は一切施していないそうで

そのためマリアさんが子供だった頃の 
教育などの記録は残っていないのです。

皇帝になれるのは男だけだったので 
それは婿殿にお任せして 娘にはオーストリア、
ハンガリー、ボヘミアの王位を継がせています。

ところが1740年に父君が崩御すると 
周りの国々がハプスブルク家の所領を
分割しようと攻め込んできました。
(どうしていきなり戦争なんだか)

まあ あれですよ 大帝国の王位を
継いだのが女の子だったもんだから 
周辺諸国はチャンスだと思ったんでしょうね。 

力で脅せば分捕れると思って 
勇んで出陣して来たんじゃないでしょうか。

父君が存命中は ハプスブルク家の領地は
分割してはならないという決まりを
大人しく守っていたのに 本性を
むき出しにして来たんですな。

後にオーストリア継承戦争といわれる戦争で 
1748年まで続きます。

マリアさんは果敢にこれに立ち向かうんですよ 
しかも子供たちまで 戦場に
連れて行ったりしています。

1741年に待望の男の子が誕生しますが 
戦況はますます悪化。

四面楚歌に陥ったマリアさんは
ハンガリーへ行って
戴冠式をして女王として
同国議会に支援を申し入れ 
長い時間をかけて交渉した結果 妥結。

これ以降ハンガリーはオーストリアの
主力武隊になるのです。
 
 

帝国を守り抜いた姫君

 
1743年にはボヘミアでも
戴冠していますが ごたごたがあった模様。

何だかホヘミアの人たちは 
態度がころころ変わったとかで 
マリアさんも 相当お怒りに
なっていたみたいです。

それでも厳しく罰したりせず 
せいぜい利敵行為を働いた一部の貴族と

資金調達をしたユダヤ人を
追放したくらいで済ませたそうです。

まああまりことを荒立てたくない
事情もあったのでしょうね。

戦乱も含め若い女王が一歩も引かずに 
勝負・交渉を成功させたことに
マリアさんの評価は大変上がったそうです。

ところで当時 神聖ローマ帝国の皇帝は
「選挙」で選ばれていたんですね。

戦争のごたごたで一時 皇帝の地位を
他の人に奪われていたそうですが

1745年の皇帝選挙で夫君のフランツさんが 
再び皇帝に返り咲いています。

この後フランスに接近するため 
ポンパドゥール夫人を通して

ルイ15世を懐柔したり
ロシアの女帝エリザヴェータとも交渉をまとめ 
プロイセンの包囲網を作りました。

これを3人の女性がやってくれちゃったので
「3枚のペチコート作戦」と
呼ぶのだそうです。

男どもがぐぎぎ…となっているのが 
笑える~ ケケケ…)

ご存知のとおり この後末娘を
フランスの王室に嫁がせていますしね。

下手に政治なんて勉強させなくても 
時勢を正確に捉えることができれば 

それに対する最も効果的な方法を 
自分で考える力は 女性の方が
優れていると思いますけどねえ、

なんてったって主観で動きますから。

ハプスブルク家の所領を守り 
内政的には改革を進めて 
国の基礎を築いた功労者ですが 

夫君との仲はとてもよく 
子供をたくさん設けました。

後継者問題で悩んでいた父君を
見ていたので ご自身はたくさん子供を
生もうときめていたみたいです。 

いかにも長女らしい責任感が伝わってきます。

1765年にその夫君が崩御すると 
以降はずっと喪服だけを着て過ごしました。

そして15年を経た11月 
散歩を楽しんだ後 高熱を出したそうで 

およそ2週間の後 息子のヨーゼフ2世や
娘たちに囲まれて 崩御されたそうです。

偉大な女王の波乱の人生でした。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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