今日はナポレオンが皇帝として戴冠した日

ナポレオンの戴冠 ガラス窓

 
ナポレオンの戴冠
 
ナポレオンという人は 
軍人さんというイメージですが
皇帝になりたかったんですかねえ?

恐らくは違うと思うのですが… 
彼はフランス革命だって知ってますし。

単純に喜んではいられなかっただろうな… 
民衆の手のひら返しを見てるもん。

確か…膨大な血を流して 
ブルボン王朝をぶっ倒した
はずじゃなかったの?

そうして市民の手に「権利」とやらを
取り戻したんでしょうに。

ただその混乱に乗じて オスマン帝国と
英国 ロシアの領土以外の欧州を
丸ごと制圧しちゃったもんだから 

統治するのに民政では収拾がつかないので 
結局強権的な帝政に戻っちまったとか?
 

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個人的にはどう理解すればいいのか悩ましい

 
革命とやらで命を落とした人たちが 
浮かばれないじゃないですか
というのは 日本人的な発想ですけども。

ともあれ1804年の今日12月 2日に
パリのノートルダム大聖堂で
盛大な戴冠式を執り行っています。

きらびやかな式の様子は
いくつもの絵で残っていますよね。

絢爛豪華なキンキラキンは大好物です 
個人的に。

これは第一次帝政の時でこれから 
およそ10年間の1814年の 4月まで
第二次帝政は1815年の 3月から
 6月までの約3か月の在位でした。

地方の一軍人から戦果を挙げ続けて 
気がついたらいつの間にか
トップに立っていたという
軍事的なセンスは
天性のものがあるのでしょう。

本当に全欧州を手中にしたので 
軍事独裁政権になったわけですよね。

そのまま軍政で突き進んだのなら 
まだわかるのですけれども

どうしてナポレオンは
帝位についたんでしょうねえ?

この時だってフランスは
共和国だったんでしょう?

「フランス共和国皇帝」に
なっているので…。\(◎o◎)/??

共和国の帝政ってどういう風に
理解すればいいのか…よくわからんです。

市民はみなナポレオンを英雄と
呼んだのですよねえ。

その言葉には「われらの英雄」というような
意味も含まれていたのでは?

単なる想像ですが こういうパターンが
最初の権力者を作り出したんだって
どうして思い至らないんだろうねえ?

一族 同族氏族 民族がみんなで上に頂いた 
それが権力者の始まりだよん。

当時のフランスのみなさんは 
絶対権力者とかきらいだったんじゃないの?

それとも「独裁者」だったから 
絶対権力者と同じなんで「皇帝」になったの?

そうか…「独裁者」がたくさんの「王国」も
従えている状態だったので

「キングオブキング=皇帝」という等式で
「皇帝」になったのかあ。

まあ私の妄想は置いといて。

実際には同じ年の 5月に国会と国民投票で
「皇帝」になったんだそうです。

晩節の神聖ローマ帝国も領内の王さまたちの
「投票」で「皇帝」を決めていましたが

欧州の「賢い白人さん」たちの
素晴らしい発想なので 笑わないように。

投票をした「国民」とは
どんな人たちだったのか 気になりますが。

近代的な権利を主張して それを市民の手に
取り戻したのはいいのですが

そういう欧州の「賢い白人さん」たちでさえ 
条件が揃わないと強権政治に
逆戻りしてしまうのを

目撃した思いがするのは 
気のせいですかねえ?

もちろん当時の人たちも 
今いるその子孫たちも
「共和国」を標榜しているので 

逆戻りしているとか
絶対に認めないでしょうけれど。ぷぷぷ…

どういう風に整合性を保ったのか知りませんが 
当人たちがよければそれでいいです。

国民と国会が自分たちの
「皇帝」を決めたのですから めでたしめでたし。

華やかな戴冠式をしている時 
ナポレオンは35歳でした。

ここからの10年は非常に多忙で 
たくさんの…というかほぼ戦争でした。

何をどうしてこんなに戦争ばかりしていたのか 
よくわからんのですが…

とにかくロシアと英国を相手に 
戦い続けるのです。 

そして最終的には あの有名な相手に
大打撃を受け 大負けを喫するのです。

ナポレオンを苦しめたのは… そう 
広大なロシアの平原と冬将軍でした。
 
 

勝敗が立場を決める 皇帝と囚人

 
大っぴらに戴冠をしてみせた
皇妃ジョゼフィーヌさんは 

実は別にいた婚約者を振ってまで 
結婚した人だったのですが
子供を望めないとわかるとあっさり離婚。 

オーストリア皇女を後妻に迎えました。 
若い方がいいんですかねえ。

この姫君は無事に男の子を設けますが 
この子が4歳になる頃ナポレオンの方が
失脚してしまって なんと
島流しになってしまいます。

ウィーン会議がもたついている間に 
エルバ島を脱出し再び帝位に返り咲くのです。

今度は投票じゃなかったみたいですけども。
ぷぷぷ…

でも結局は 戦争になって
95日間の天下で終わるのです。

今回はギロチン刑ではなかったようで 
よかったですねえ。

セントヘレナ島では本当に囚人扱いでしたし 
若い頃からの無理が祟ったようで

体調を崩し51歳の若さで
世を去ってしまします。

死因は胃がんだそうで 多くの肖像画に
ある通り 手で胃の辺りを抑えてて
本当に胃の調子がよくなかったんですね。 

無意識に取ったポーズだったりして?

一瞬の閃光のような激しく
強烈な一生だった気がします。

全欧州を照らし出すような 
大きな大きな稲妻のような人生だったと…。

そんな強烈な人でさえ たくさんの
民族が陸上で 国境を接している欧州を
一つにすることはできませんでした。

なぜなら度重なる戦争により かなり強引に
言うことをきかせた形だったので

例えそれが民主的に選ばれた
「皇帝」であっても よその国に
支配されることなど 誰も望んで
いなかったからだと思います。

でも欧州の列強どもは 自分がされたら
嫌なことを 数百年にも渡ってよそでは
やらかしてくれちゃっていますけどね。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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