今日12月 4日は 詩人リルケが生まれた日

リルケ 生誕 ガラス窓

 
リルケ 生誕
 
今日12月 4日は
詩人リルケが生まれた日です。

彼の生年は1875年なので 
プラハで生まれたのですが 

国名はまだオーストリア=ハンガリー帝国と
呼ばれていました。

私はもう少し後の人だと思っていたので 
日本だったら明治時代だったと知って 
すこし驚きました。

ドイツ語の詩人ということで 
オーストリアの人なんですね。

抒情あふれる作風ということで 
肖像写真からも何となく感じますが 
繊細な感覚の人だったのでしょうね。

私は時々詩人を取り上げていますが 
この人たちはきっと
他の人より繊細で敏感なセンサーを
心に持っているのかなと思っています。
 

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詩人という人たち

 
あと言語表現というか 
言葉の選び方に独特の
センスがあるのだろうと。

繊細さは時に もろさだったり
受け止めが大袈裟だったりするかも
しれないのですが

そういう瞬間に
どんな言葉を選ぶかという点が
詩人の詩人たる所以なのだろうなと。

あとどこの言語にもありますが 
定型詩という分野では特に
どこに主眼を置き どの感覚で
見つめているかということを
的確に形の中に収めなくては
いけませんから 

研ぎ澄まされた言語感覚が
要求されるのだろうと思います。

しつこいようですが 
外国語の場合翻訳する人の力量で 

か~なり変わってきてしまうので 
この点も重要ですけどね。

えっとリルケさんでしたね。

リルケさんの場合 かなり早くから
詩作を始めたそうですが 特に
芸術家オーギュスト・ロダンとの交流が

独自の手法をまさぐるように
なったということで 
大きな岐路になりました。

ロダンは彫刻が有名ですが 
造形を作り出す芸術家の何を見て 
どんな部分から(あるいは全体から?) 

リルケさんは自身の詩の手法が
変化するような 変わるような
何かを感じ取ったのでしょうね。

芸術家は絵画とか彫像とかを
作り出しますが 詩人は言葉によって

自分と読み手の双方に働きかける 
内的空間というかイメージを
構築するのが仕事というか 
そういう作業をするのかなあ。

だから同じ詩人の作品でも
読み手の内面に変化があった時 

例えば 人生経験を積み
年齢を重ねてから 
再び読んでみるなどした時

あたかも新しい感覚を
呼び起こされるような
気持ちになるのかもしれません。

リルケさんはお父さんが
軍人だったそうで 
息子も軍人にしたかったみたい。

でもリルケさんは
そういう人ではなかったんですね。

馴染めない士官学校のころから
詩作をしていたそうです。

ある種の現実逃避かも… 
そのせいか抒情的な
作風だったのでしょう。

美しい世界が好きなのに
軍人さんは 難しいですよね。

士官学校はすぐにやめてしまい 
富豪の伯父さんの援助で入った
ギムナジウムを優秀な成績で卒業しました。

この時年上の女性と恋に
落ちたりして 青春してましたよ。

そんなこと言ってはいけませんが 
恋をすれば犬でも詩人といいますから
この時にもたくさんの詩を残しています。

プラハ大学、ついでミュンヘン大学で
文学 哲学 美術などを学んでいます。

詩人が文系のキャンパスライフを
送ったという話を聞くと ほっとしますね。

植物に適切な水やりとか
肥料をあげるような 

そんな必要なものを望むだけ
吸収したんだろうなあという 
充実感のようなものを感じます。

ですが この後からは
資金援助が止められてしまうので 
生活が苦しくなります。
 
 

独立後からは旅の生活に…

 
どういうわけかそういう時に
結婚したり子供が生まれたり
してるんですけど。

結婚=独立という考え方が普通なので…。

奥さんはイタリア人の彫刻家で
弟子をとって教室を開き リルケさん本人は
友人の紹介で画家評論という
執筆の仕事に取り掛かります。

これをきっかけにロダンと知り合うのですね。

ロダンのアトリエに通うなどして
芸術家の生活を目の当たりにします。

この画家評論の他にも
小説を執筆していて こちらは
「マルテの手紙」といいます。

リルケさんは仕事のため
欧州を転々とするんですね。

さまざまな人と出会い 
時には援助され親交を深め
詩を書きつづっていきます。

やがて第一次世界大戦が勃発し 
ミュンヘンに滞在していましたが

原稿や財産をパリに残してあったのに
仏国へ行かれなくなってしまいました。

この時蔵書や原稿 手紙などすべて
敵性財産として没収の上 競売にかけられて
残らず散逸してしまったそうです。 
やらかしやがったぜ。

リルケさん本人も徴兵され
文書課に配属になりましたが 

理解のある上官で いやな文章を
書かされることはなかったそうです。

そしてこれまでに親交を結んだ
たくさんの著名人たちが請願してくれて

リルケさんを軍から
「救い出して」くれるのです。

スイスに招かれたリルケさんは 
そこで翻訳の仕事をしたり

「ドゥイノの悲歌」や
代表作
「オルフィオスへのソネット」を
仕上げます。

また仏語による詩を書いたりしていましたが 
1923年ごろから体調を崩し 
サナトリウムに入院するようになりました。

そして1926年の10月 バラの棘での
けがが原因とされていますけれど

急性の白血病を発病したらしく 
同年12月29日に51歳で亡くなります。

バラの棘だなんて 詩人ぽいですが
単純に何かのバイ菌だったかも…。

それにしても まだ若くて
もったいない年齢ですね。

欧州を転々とした生活でしたけれども 
そのことが結果的に詩人を育てて 

後世に名を残す作品を
生み出したのかなあと思います。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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