今日は戦国最強の武将 武田信玄公の誕生日

武田信玄 生誕 障子窓

 
武田信玄 生誕
 
今日から師走ですね。

そして1521年の今日
12月 1日は戦国最強と言われた
武田信玄公が生れた日です。

信玄というのは 後年出家してからの
法名だそうですが

ややこしくなるので 
初めからこの名前で通します。

甲斐源氏の嫡流だそうですが 
領土を一番広げたのではないでしょうか。

兄君がいたそうですが夭逝したので 
信玄公が嫡男になったのですね。

でも弟が生まれると父君から 
徐々に疎まれるようになったとか。

ありゃあ12歳で元服前に
正室を迎えてるけど…残念ながら難産で
母子ともに亡くなってしまっています。

えええ?子供できたの?作ったの?
なんちゅうませガキ。おっと失礼。
 

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由緒正しいお殿様

 
この後15歳で元服して 
左大臣三条家から継室を迎えています。

この婚姻は今川義元が家督を継いだ時 
武田家と和睦していたので
その斡旋で実現したようです。

で、元服後の初陣は
山の向こうの信濃でした。

幾度か父君と信濃侵攻をしていますが 
1541年、信玄公と重臣たちが
父君を駿河へ追放してしまい 
武田家の19代目の家督を分捕りました。

弟をかわいがる父君を 
疎ましく思っていたのでしょうかねえ。

この後信濃の中ほどから南を
ほぼ手に入れて

北条と今川のもめごとを
収めて両家にカシを作り
その後の甲相駿の三国同盟に
つながっていきます。

さらに信濃の北の方へも
手をのばしていくのです。

真田幸村のお祖父さんの
幸綱さんもこのあたりで 
信玄公についたのでしょうか。

有名な真田家の家紋「六文銭」は 
本来 三途の川の渡し賃の意味だって。

…とすれば どちらかというと
不吉な感じがするのですが 

あえてそれをもって信玄公への
恭順の証として 旗印→家紋にしたみたいです。

1559年に信玄公が出家して
信玄公になった時 
この幸綱さんも
一緒になって剃髪して

一徳斎と号したそうで 
どこまでもついていったんですね。

信玄公に苛められた
信濃の小さな武将たちが
越後の上杉謙信公に助けを求めて

それから信玄公と謙信公が
小競り合いを繰り返すのです。

この二つの勢力の決着は 
ずっと後になりますが和睦で終わっていて

直接対決で勝負が決したわけでは 
ありませんでしたのでねえ。

信玄公と謙信公の小競り合い 
川中島の合戦は5回もやらかしています。

本拠地は甲府ですけれども 
現在の長野市のすぐ近くまでの広い範囲が
信玄公の領地になっていましたので 

距離的にはかなり離れておりますが 
風のように駆け抜けて来ては 

見晴らしのいい平らな場所でにらみあって
いたのではないかなと…。
(川中島は二つの川の合流地点で 川の中州なのです)

んで 敵陣の総大将信玄公に向かって 
謙信公がたった一騎で突っ込んできて

それを信玄公が軍配で応じたというアレは 
後世の創作ですから。

まるで現場を見てきたような銅像が 
あったりしますけどね。くすくす…(^艸^) 
 
 

正真正銘 戦国の雄

 
戦国時代は注意しないと
周り中が敵だらけですから

どこへ侵攻し どこと手を組むか
あるいは包囲するかなど
駆け引きが大変でしたね。

武田勢といえば風林火山の
キャッチフレーズどおりよく訓練された
部隊が自慢でしたし 

実際信玄公は人を大切にしたと
言われています。

「桶狭間の戦い」で信長さんが
今川義元さんを打ち取ったりして 

少しずつ潮目が変わり にわかに
南西の方が騒がしくなってきました。

信玄公は和睦や同盟を武力と
同じくらい上手く使った人でしたね。

信長さんが足利義昭さんを利用して
上洛したのに 仲違いをしましたから

義昭さんが怒って 他の大名たちに
信長討伐を命じます。

本当のところ信玄公にとって 
信長さんはどんな位置づけだったのでしょう。

実は信長さんの嫡男 信忠さんと
信玄公の息女 松姫は婚約していたりします。

比較的穏やかな関係を
保っていたと言えるでしょう。

もちろん天下取りには
目障りな存在だったでしょうけれど 

遠江や三河へ大きく
攻勢をかけて次々に城を落とし 

1571年の暮れごろには
信玄公の所領は合わせて
120万石にもなっていたそうです。

この1571年は信長さんが 
比叡山を焼き討ちした年でもありまして

お坊さんたちは信玄公の元へ
逃げ込んて来たのだそうです。

将軍さんの下知もありましたし 
やってやろうじゃないの
とばかりに進軍します。

まさに破竹の勢いの信玄公は 
途中信長さんが色々と忙しかったために 
援軍を送ってもらえなかった家康さんを 
三方ヶ原で散々に蹴散らして 
尚も三河領内を西へ進もうとします。 

ですが越前の朝倉さんが途中離脱してしまい 
さらに信長さんが家康さんに
あまり数は多くはないですけれど
援軍を送りました。

これをもって両雄が直接相対する形になり 
信玄公の姫の婚約も破棄されることに…。

1573年の年明けに進軍を再開し
 2月10日に野田城を落としました。

ところがこの頃から信玄公の体調が悪くなり 
突然武田軍の動きが止まります。

そして家来衆の談合の結果 
甲斐へ帰ることになりました。

 4月12日 三河街道を甲斐へ
引き返す途中で 信玄公は
亡くなってしまうのです。

享年53は当時としては
平均的な年齢だったと思われます。

ですがご存知の通り 信玄公の死は
3年の間 隠されていました。

もしも信玄公がもう少し長生きしたら 
かなり違う日本史になっていましたね。

簡単に想像がつかないですけれど 
天下を取っていたのはもしかして…?
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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