9月 6日、歌劇「皇帝ティートの慈悲」は 本日初演!

皇帝ティートの慈悲 初演 ガラス窓

 
皇帝ティートの慈悲 初演
 
「皇帝ティートの慈悲」という歌劇は 

1791年の今日 9月 6日に
神聖ローマ帝国皇帝レオポルト2世が 

ボヘミア王としても戴冠するので
そのお祝いにプラハの国立劇場で
上演されるために作られた
天才モーツァルト最晩年の作品の一つです。

最晩年つったって この天才は
36年しか生きなかったので
まだ十分若い年齢でしたけども。

なんでも依頼から18日間で
作っちゃったとか。\(◎o◎)/!

オペラってそんなにちゃっちゃっと
出来るもんなんですかねえ?

まあ映画「アマデウス」の表現を
借りるなら 手書きの楽譜には
ほとんど手直しをした痕跡が
見られないということなので

まるで聞こえる音楽を楽譜に
起こすみたいに スラスラスラア~ッと
書いちゃったんじゃあないでしょうかねえ。
 

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歌劇が ホイホイできてる…

 
…といっても これは演出だそうですけど

だとしたら同期のサリエリさんを 
嫉妬の炎で ぐぎぎ…にした天才の
所以はどのあたりだったんでしょうな。

もしかすると どこもかしこも
ぐぎぎぎ…の対象だったのかも…。

この「皇帝ティートの慈悲」を
依頼される前から モーツァルトは
すでに「魔笛」を書き始めて
いたそうですが

それを中断して
こちらを先に書き上げて 改めて
「魔笛」に取り掛かったそうで。

だから…作曲活動って そんなに
軽く掛け持ちみたいにできるもんなの?

まあモーツァルトだからこそ 
できたことだとは思うけどさ。

この作品は戴冠式の言ってみれば 
余興みたいなものなので
(すんごいレベルの余興ですなあ)

見てる人たちに気を使って
3幕ものだったのを 強引に
2幕に縮めちゃったらしいんですね。

だから人物を掘り下げたりしている
余裕がなくて かなり軽~い出来というか

そういう仕上がりになって
しまったみたいなのです。

お祝いの席でもあるし 並み居る
王侯貴族たちはこの「皇帝ティートの慈悲」
みたいな少~し前時代的な作品で 

自分も慈悲深い方だよね~的な
自己満足に浸れたのかもしれません。

…が… ご臨席の皇后さんには
「ドイツ人の汚らしいもの」って
言われちゃったとか。

モーツァルトはオーストリア人だけどねー。
(当時は微妙な状態だったから…。)

皇后さんてば ちょっと
言い過ぎじゃあないですかあ?

初演の評価はイマイチだったみたいですが 

プラハでは9月末まで
再演されたそうで 市民には
概ね好評だったようです。
 
 

歌劇は献上されたことが大切

 
ところでこの「皇帝ティートの慈悲」の
ティートさんてのは 古代ローマ帝国の
皇帝をやった実在の人物で 
ティトゥス帝という人だそうです。

先日取り上げた「ポンペイの街」が
埋没した時の皇帝で 寝る間も惜しんで
災害復旧に尽力したけれど 
激務が祟って早死にしちゃったんですと。

だからとても慈悲深い皇帝として 
当時の人々には知られていたそうです。

民のために尽力するような皇帝が
極めて少なかったから 記録に残ってるとか
そこまで言っちゃうとちょっと言いすぎかなあ。

ローマ皇帝は選ばれる過程が
ちょっとアレな部分もあるけど 

あんまりなことをやらかすと 
暗殺されちゃったりしてるから 
ある意味命がけだったけど。

ただこの歌劇 内容的には
「恋愛もの」で「慈悲深い皇帝」
というとこしか使ってないみたいで 

どこらへんが「皇帝ティートの慈悲」
なのかよくわからない模様。

掘り下げが少なくなったもんで 
取ってつけたような感じになっちゃったのかな。

それでもどうにかこうにか 
栄光あるローマ帝国から繋がる
現皇帝のお祝いの席だし

古の逸話に絡めようと 
がんばったところは
認めてあげてほしいですね。

帝国が広すぎて治めきれずに 
結局バラバラに分解してしまってからの
神聖ローマ帝国ですけれども 

国境を陸上で接するが故の
血みどろの領地争いの末

このような形に落ち着いたわけですから 
収めたと言えば間違いはないです。

で、王国間の力学でもって 
同じ国名を名乗らなくても 
違う言語や風習であっても

ローマ皇帝がその国の王を
引き継ぐわけですから 
おめでたいことなんですよ。

きっとそういう気持ちを込めて 
外国人がお祝いの歌劇を
作曲して献上しているのです。

言葉にしてみると欧州って 
とっても大変な場所だったって
ことが分かりますね。

他人事ですが ため息が出ちゃう…。

ちょうど1739年に
「ポンペイの遺跡」が発掘されて 
大騒ぎになったそうで

モーツァルトもお父さんと一緒に 
この遺跡を見に行ったそうです。

古代ローマ帝国の様子を 
そのまま伝える「ポンペイの遺跡」は
貴重なんですよ。

他のは帝国がキリスト教に
乗っ取られた時 
みんな破壊されてしまったので

在りし日の帝国の様子を
伝えるものは「遺跡」しかないのです。

モーツァルトの奥さんコンスタンツェは 
彼の死後 この作品をウィーンでも
上演して成功をおさめ 
ドイツ各地でも上演したそうです。

プラハの人もウィーンや
ドイツ各地の人々も 一般には
結構受けているみたい。

ということは 特権階級に対して 
うっすらと皮肉めいたものを
含んでいるのかな。

そういうのって少なからず
あることなので 皇后さんの
おっしゃり様なんかは

その辺りに気付いたから 
酷評されたのかもしれないですね。

後の祭りですけどもコンスタンツェさんが 
もうちょっと早くから
きちんとマネジメントして
あげていたら

天才はもっとたくさんの曲を
残せたんじゃないでしょうかねえ。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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