今日は天才アイザック・ニュートンが生まれた日

ニュートン 生誕 ガラス窓

 
ニュートン 生誕
 
「万有引力」とか「光学」とか
ニュートンさんという人は 
物理学者だと思っていた私。

実像はそればかりではないらしいですね。

才能は素晴らしかったけれど 
かなり偏屈で感情的な人だったみたい。

1643年 1月 4日英国の寒村で
生まれたニュートンさんは
お父さんと同名だそうですが 

彼が生まれる3か月前に
亡くなっていたそうです。

おまけに未熟児だったそうで 
お産婆さんに長く生きられないと
言われたみたいですが は・ず・れ~! 
84歳まで生きましたがね。

ですがやっぱり子供時代は 
小柄で体も弱かったみたいです。
 

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天才は家庭的には 恵まれず…

 
息子が生まれたけれど旦那がいなくて 
生活に困ったお母さんは

ニュートンさんが3歳の時 息子を置いて
別の人の所へ「嫁」にいきました。

息子を育てるためだったみたいですけど 
ニュートンさんは3歳までに
両親を失ったようなもので 
お祖母さんに育てられたんだそうです。

一方で亡くなっていたお父さんの家からは 
医師 牧師 薬剤師など

けっこう知識階級の人を 
多く輩出していたそうです。

ニュートンさんの才能は こちらの方から
出てきたのかもしれませんね。

彼の才能に気が付いたのはお母さんよりも 
親戚の方だったようです。

1655年に少し離れた学校へ通うため 
知り合いの薬剤師クラークさん家に
下宿したことで 薬学関係の本や

正式に結婚はしなかったものの生涯を通して 
付き合うことになる女性と出会っています。

ニュートンさんは薬草を集めたり 
時計を作るなど一人で過ごすことが
多かったそうで クラスメイトからは
からかわれる対象だったようですね。

ある時 こいつらをやっつけてから 
自分に自信を持つようになったとか。

学校へ行き始めて2年ほど経って 
お母さんがまた夫を亡くして

3人の子供を連れて嫁ぎ先から 
ニュートンさんの所へ出戻ってきました。

お母さんはニュートンさんに 
実父の農場を継いでほしかったので
学校をやめさせてしまいます。

ところがニュートンさん自身は
農業なんてほったらかしでクラークさんちに
入り浸っては本を読み漁り 
水車造りに熱中していました。

農業に向かないと思ったお母さんは
方々に相談し トリニティ・カレッジに
進学させることにしました。

そのため2年後には復学し 
今度は受験のための勉強を
することになったのです。

そしてトリニティ・カレッジの教授らの 
小間使い兼学生のような立場を得ました。

ニュートンさんはどちらかというと 
新しい考え方の方に興味を示したそうで

授業料などが免除されている立場でも
あったことから お金を払っている
他の学生たちとは あまり
親しくしなかったようです。

ここでたくさんの学びと
最高の出会いがありました。

恩師のアイザック・バロー教授は 
ニュートンさんの才能を高く評価してくれて

奨学生にしてもらい 翌年には
学位を授けられるなど 庇護を受けました。

この先生なしでは「ニュートン」には
なれなかったでしょう。
 
 

偉業は若いころに達成された

 
そして1665年に「万有引力」、
「数学の二項定理」 さらには
「微分積分」などニュ-トンの偉業は 
20代前半で成し遂げられているのです。

実はこの時ニュートンさんは 
田舎の生家へ戻っていました。

当時ロンドンではペストが流行っており 
避けるため田舎へ避難していたのです。

充分に思索する時間があったことが 
偉業に貢献したことは間違いありません。

実はニュートンさんてば「錬金術」に 
はまっていたらしくてですね

晩年まで密かに怪しげな実験を 
繰り返していたようなのです。

髪の毛から水銀が検出されているので
「錬金術」でできたモノを舐めていたみたい。

恩師バロー教授から数学教授の
ポストを譲ってもらって務めた後 
英国銀行の造幣局に終生務めたんですよ。

在職中「贋金づくり」をした奴は死刑にまで
してるのに 自分は「錬金術」かい…。

教授時代もやらかしていますよ 
講義の内容が斬新過ぎて当時の学生には
理解ができなかったのか 聴く学生が
誰もいないけど講義はやってたとか…。

天才は自分の導き出した「解」が
完成されたものであれば 
人の理解なんぞ どうでもいい 
取るに足りないことだったのでしょう。

大学の教授、議員、造幣局長と
結構社会的地位も手に入れてるし 
理論をまとめて本を出版したりしました。

その結果同じくらいの時期に 
似たような理論を得て発表したライバルと
論争や訴訟騒ぎをしたこともありました。

そうした争いはライバルたちが 
先に亡くなったりしているので

生き残ったニュートンさんの勝ち 
ということになるんでしょうね。

偏屈なところも多かったようですが 
1727年 3月31日睡眠中に
84年の生涯を閉じるまで 

一度しか笑ったことがなかったとかいう
偉業と同じくらい とんでもない
エピソードを残しています。(◎艸◎)

あれですかねえ 幼いころ一度に
両親を亡くしたようなものだったし

英国の冬は暗くて寒いですから 
偏屈なところがこじれてしまったとか…。

あるいは苛められっ子だったようなので 
心に傷が残ってしまっていて
人との関わりが上手くなかったのかも…。

いずれにしても 数学や物理学などなら
相手の機嫌を取る必要はなく

自分の望むままに納得がいくまで 
思いっきり突き進んで行けばいいので
楽だったのかもしれませんね。

周りのすべてが面白くなかったのか 
笑い方を知らないだけだったのか…

天才ニュートンには こんな
一面もあったんですねえ。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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