今日は伝説の歌姫エディット・ピアフの誕生日

ピアフ 生誕 ガラス窓

 
ピアフ 生誕
 
哀愁に満ちた独特の歌声と 
悲しい内容の歌詞が
相乗効果を発揮したのか 

あるいは彼女自身が
シャンソンのために生まれたのか…。

エディットさん自身も 多数の作詞を
手がけたと言いますので

やはり才能があり 得るべくして
得た名声だったのでしょうね。

エディット・ピアフが生まれたのは
1915年の今日でした。

彼女が生まれた時 母親は
まだ17歳だったそうです。

両親は貧しくて 小さな子供を
育てられる環境ではなかったようで
母方の祖母に預けようとしたのです。

ところがこのお祖母さんに
養育を拒否されてしまいまして 

仕方なく父方の祖母のもとに
預けることになったのだそうです。
 

スポンサードリンク

 

エディット・ピアフは寂しい家庭環境で…

 
ところがこちらのお祖母さんは
売春宿を経営していたとか…。\(◎o◎)/!

幼いエディットさんをそういう祖母に
預けたすぐ後 父親はフランス軍に
入隊してしまいまして 

エディットさんは
体よく放り出されたような…。

そういう訳であまり好ましくない
環境で育つことになりました。

若いお母さんはカフェで
歌を歌っていたそうで 

エディットさんの歌の才は 
お母さんから受け継いだもの
だったかもしれませんね。

よくあるケースですが 
エディットさんも幼い頃や
名声を得るまでの経緯が
謎に包まれている人物のようです。

3歳から7歳まで彼女は
角膜炎を患っており 
目が見えなかったそうです。

祖母の店に居た女性が
「リジューのテレーズ」へ
巡礼に行ったあと

エディットさんの目が見えるようになった
という話があるそうです。

あの聖女の奇跡で救われたのでしょうか。

角膜炎が自然治癒するのかどうか 
ちょっとわからないのですが

エディットさんの伝説として
あるのだそうです。
 
 

「エディット・ピアフ」が誕生する

 
やがて14歳の時には お父さんと
暮らすようになったみたいです…が

ずっと一緒に居たって難しい年頃だし 
まして好ましいとは
いえない環境で育ったのに… 
うまくいくわけがないですよ ねえ?

思った通り すぐに反発して
独り立ちした彼女は パリ郊外で
ストリート・シンガーとして 
自分の道を歩み始めました。

実はお父さんも大道芸人だったそうで 
蛙の子はカエルですわいな。

1935年街角で歌う
エディットさんを見出したのは 
ナイトクラブのオーナーでした。 

なかなかの慧眼ですねえ。

ですがエディットさんは
神経質な人柄だったそうで 

オーナー氏は店への
出演を説得したのだそうです。 

あれま 快諾ではなかったんですね。 

街角でも ナイトクラブの舞台でも 
人前でパフォーマンスをするということに
変わりはないような気がするのは 
私が素人だからかしら? 

大きなチャンスが向こうから
声をかけてきたと 
受け止めなかったんですね。

苦労をしてきたので 
少しナーバスになっていたのかも…? 

彼は小柄だったエディットさんに 
雀という意味の「ピアフ」という
芸名を与え 店で歌うように勧めました。 

同じ年に最初のレコードも
録音されたそうですので 

ここに歌手「エディット・ピアフ」が
誕生したといえますね。

ところがこの恩人ともいえる
クラブのオーナーが 
殺害されるという事件が
起こってしまうのです…。(◎艸◎)

さらに驚いたことにあろうことか 
エディットさんが共犯だと
告発されたそうです。 

で・す・が 無事に無罪を勝ち取ります。

当然ですよね、どうして
世に出るきっかけをくれた人を 
殺さにゃならんのだ。

子供を養育できないような
両親を持つとか 恩人が
殺害されてしまうとか

とても極端で過酷な境遇で
若い頃から苦労してきたのですね。

この後エディットさんは
多くの著名人と知り合いになり 
その中で自分も作詞をするなど
曲作りをしています。

そんなエディットさんの代表曲
「バラ色の人生」は祖国フランスが
ドイツに占領されていた 
第二次世界大戦の時に
作られた歌だそうです。

大ヒットの大成功で有名人になった
エディットさんは ドイツ軍の
高官のために歌うことで 

フランス人捕虜と写真を
撮ることを認めさせます。

兵士の士気を高める!というのは表向きで 
兵士のみなさんはエディットさんと
撮った写真から自分だけを切り抜き 
偽造書類に使ったのです。

もちろんこれはエディットさんの
レジスタンス運動であり 

このおかげで たくさんの人々が
救われたのだそうです。
 
 

エディット・ピアフ 駆け抜けた人生

 
やがて戦争が終わり すでに
世界的な歌手となっていた
エディットさんは 欧州 米国 
南米とコンサートを開いていました。

米国ではマレーネ・ディートリッヒさんとも
親交を結び 生涯の親友になりました。

エディットさんが見出した歌手も 
シャルル・アズナブールにイブ・モンタン
ジルベール・ベコーとか 

全員が世界的な歌手という
とんでもない面々がずらり。

ま、エディットさん自身が
世界的な歌手なので
当然かもしれませんけど。

ですが1951年に
交通事故に遭ってから 
深刻なモルヒネ中毒に。

そしてエディットさんの
大ファンからディートリッヒさんが
介添えして1962年に
20歳も年下の彼と 
ゴールインしたのもつかの間 

1963年10月エディットさんは 
がんのため帰らぬ人となってしまいました。

彼女の葬儀では パリの交通が
完全にストップするほどだったといいます。

47年を一気に駆け抜けた
人生だった気がします。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

スポンサードリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました