今日は詩人 土井晩翠の誕生日

土井晩翠 生誕 障子窓

 
土井晩翠 生誕
 
1871年の今日12月 5日は 
土井晩翠が生まれた日です。

私は「荒城の月」が有名なので 
作詞家だと思っていたのですが

詩人という捉え方なの?と思っていたら 
たくさんの詩集も出されているし

詩人として初めて文化勲章も 
受章されておいでだったのですね。

失礼いたしました。

それとお名前の「土井」さんですが 
もともと「つちい」と読むのが
正しいのだそうですが

「どい」と間違われることが
多かったそうで
晩年のころには 正すのも
お止めになったそうです。\(◎o◎)/

本業(?)は英文学者で 
バイロンとかホメロスなどを
翻訳している先生だったんですね 
知らなかったあ。
 

 
語学に堪能だった先生
 
お父さんも和歌や俳諧とか
親しんでいたようで 

小学校の時には
「三国志」「水滸伝」や
「十八史略」を\(◎o◎)/
読んでいたって。

帝国大学の英文科に入って英語 独語 
仏語 イタリア語 ギリシャ語 
ラテン語を学んだそうです。

そんなにいっぺんに勉強して
ごっちゃにならないもんですかねえ。

欧州の人には複数の国の言葉を
操る人はいますけど 

それって構文がほぼ同じで
一部品詞などと若干のルール、
使う文字が違うくらいの
差しかないんですわ。

欧州の国々はほとんどが
インド・欧州語族ですもんねえ… 

つまり母国語とあまり大きく違わず 
しいて言えば 強烈な
訛りみたいなものなので 
とても勉強し易いからなんですけども。

日本人がインド・欧州語族の言語を学ぶのは…
できることなら避けたいです。
(あ… あれ?…私だけですか?T_T)

それを四つも五つも… 
まあ共通点も多いので

どれか一つを攻略すれば
不可能ではないですが 語学の才能に
あふれまくっていたんですな。

カーライルの「英雄論」を翻訳して
出版するなどしています。

英国の言論人ですが 有名なのは
「国民は自らと同程度の政府しか持てない」と
のたまったお方ですわいな。 

かの文豪ゲーテさんとも
文通してたそうです。(◎艸◎)

晩翠先生は大学を卒業後 上記のような
翻訳の仕事をなさりつつ 

ご自分の詩集も出しておられまして
「天地有情」は題だけですけども
知っています。

これと島崎藤村の「若菜集」が並び称されて
「晩藤時代」といわれたとか。

唱歌の作詞も依頼されていて 
それが「荒城の月」でした。

1900年に母校である 
第二高等学校で教鞭をとりましたが 
翌年には欧州へ遊学に出ています。

言葉に不自由はなかったでしょうから 
有意義な旅になったでしょうね。

帰国後 再び二高に復職して
同校の校歌を作詞しています。

この学校は後に東北大学になるのですが 
晩翠先生の授業を受けたくて
国文学だと思って入学してくる
学生さんが 多かったそうです。

でも先生が教えていたのは
英語だったんですねー。

1924年というのは
詩人バイロンが亡くなって
100年目だったんですねえ。

これを期に
「チャイルド・ハロルドの巡礼」を
翻訳して出版しました。

バイロンは英国の詩人ですが 
めちゃくちゃな生活をした人でしたので

作品は有名だけども 友達には
なりたくないタイプの人ですねえ。

男爵を相続したのに大学では
ろくに勉強もせず 
女性と浮名を流してばかり。

貴族の生まれだったから
遊び暮らせた典型的な人ですが 
なぜか詩集は人気があるです。

晩翠先生は詩作もどしどしされていますし 
昭和に入ると今度はホメロスの
翻訳に打ち込まれたそうです。

も…もしかしてギリシャ語あたりから
直接翻訳したのかしらん? 

晩翠先生なら 何語からでも
翻訳できただろうから すごいわあ。
 
 
翻訳、詩集出版 唱歌、校歌等の作詞…
 
1934年には定年退職され
名誉教授になります。

この頃から日本の周辺では
きな臭くなってくるのですが 

晩翠先生はもう召集される
お年ではありませんでしたから 
危険な目に遭わずに済みました。

1941年には「戦陣訓」というものの
文体を作る作業に参加したそうです。

「戦陣訓」て…なに?という人も 
例の「生きて虜囚の辱めを受けず…」
という一文なら知っていると思いますが 
これで めちゃくちゃ有名なやつです。

晩翠先生も一緒に文章の案を
練っていたんですねえ。

直接 戦争に駆り出されることは
免れましたが 
残念なこともありました。 

大東亜戦争では米軍による仙台空襲で 
ご自宅と蔵書3万冊を 焼失しています。

私生活では戦争までに3人のお子さんを
次々に亡くされていましたし

1948年には 奥さんまで
亡くされてしまいました。

お孫さんを除く近しいご家族が 
みんな先立ってしまわれてお寂しいこと。

ご不幸が続いたためか 心霊学にも
興味を示されたそうで

「日本心霊科学協会」という
財団法人の設立に関わっているそうです。

戦後は学校の校歌作りに
ほぼ専念されています。

また市町村の歌なども
作詞しているそうです。

冒頭に書きました文化勲章を
受章されたのは1950年のことです。

そして1952年10月19日 
急性肺炎のため80歳の生涯を閉じました。

詩人としてはもちろん どのくらい
作詞したか正確にはわからないくらい
膨大な数の校歌とともに 
ずっと語り継がれる人となりました。

もしかするとあなたの母校の校歌も 
晩翠先生の作品だったりするかも…?(笑)

個人的には「荒城の月」は
好きな歌に入りますね。

詩に詠い込まれている情景を 
はっきりとイメージできる詩が好きなので。

「荒城の月」の歌碑は 晩翠先生の故郷 
仙台の青葉城と鶴ヶ城にそれぞれ一か所
それと作曲者の滝廉太郎さんの故郷と 
全国に三か所だそうです。

そうですねえ… この「荒城の月」の
歌詞や詩人としての名声からは
英語の先生というのは 
イメージできないですわなあ…。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

スポンサードリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました