10月 8日は二十四節気の 寒露(かんろ)

寒露 露の草原 暦・季節

 
寒露 露の草原
 
今日は二十四節気の一つ 寒露(かんろ)ですね。

確かに早朝はかなり気温が下がってきました。

露の佇まいや 露が草の葉などに
ついた様子などが 古くから日本人に
好まれてきたのだろうと思います。

まずはその清らかな佇まいがいいのでしょうね。
きらきらと光を反射して 存在を
誇示しているようにも思えます。
個人的に 光るモノが好き…。(笑)

そして露はまた儚いものとして
認識されていたようです。

小さいですし 気温の変化で
大きく左右されますから。

物理現象として見てしまうと
ミもフタもないので その佇まいを
愛でた古き人々をイメージしながら
進めたいと思います。

万葉の昔から 清らかで儚いもの
失われ易いものとして
歌に詠まれ その美しいイメージが
共有されてきた気がします。

実際に人々が目にしていたからこそ
共有できるイメージだったので
儚いものを愛でる気持ちも
共感できたのだろうなあと
納得と同時に深く同意。
 

スポンサードリンク

 

少ないけれど豊かな言葉

 
日本の和歌は「察する文化」だと言われます。

たった31文字で どのくらい奥行きのある情景を
詠い込めるか表現できるか そしてそこに
広がる世界をどのように読み解くか
それが和歌の醍醐味であり 奥の深い所なのですね。

ストレートに表現したものも
ありますけれど それができるのは
私的な集まりや 飲み会など
だったと思われます。

昔は天皇や時の権力者などが主催する
歌会や歌合せなどが頻繁に催されました。

もちろん私的な集まりのことも
あったと思われますが
公的な政治色の意味合いの強いものも
少なくはなかったことでしょう。

深く意味を察することができる人だけに
向けたメッセージということも
できるかもしれませんね。

同じことを見聞きしても 受け取る側の
力量が違うので それを見越して
分かってほしい人にだけ
わかるように発信するのです。

普段から歌をやり取りして 察する感覚を
磨いて 研ぎ澄ませておけば
何の変哲もなさそうな和歌から 実は
とんでもなく深い意味を 読み取ることも
できたのかもしれません。

まるで暗号文のように…。

露に話を戻せば 今くらいの時期なら
朝が少し早いだけでも露の存在は
簡単に認識できるので それこそ
庶民であっても歌に詠み込めば
それがいつの出来事で 何を意味しているかも
ちゃんと理解できたのですね。

先日取り上げた時に書いた
「伊勢物語」のエピソードでは
露を知らないと表現することで
その姫君がどんな生い立ちの人なのか
すぐに理解できました。
 
 

重要になる共通認識

 
言葉というのはツール、道具ですから
上手く使えないと上手く伝わりません。

「察する」というのは 最小の表現で
最大の理解を得ようとすることかなと。

全てをくどくどと説明しなくても
最小限の言葉を用いることで
読み手や聞き手に最大限のイメージを
広げてもらいたいということ。

あるいは読み手や聞き手が自由に
イメージの翼を広げてくれることを
期待することも織り込み済み
なのかもしれませんね。

露と言ったら こんな感じで
あんな意味でそんな風に思う…
まるで連想ゲームのように 微妙に違う
表現での言葉遊びもあるのかな。

ひんやりした今頃の朝の空気の中に
光を受けてきらきらと輝く朝露は
朝という時間帯の清々しさも
一緒にイメージできます。

そしてそれが寒露という時節で
あるならば すでに過ぎ去ってしまった
夏の盛りや暑さから移ろってきた
秋の寂しげな風情を感じられます。

そしてこれから迎えようとしている
凍える季節への気持ちのざわめき…。

冷たさが増した風に清らかな露が
今にも凍ってしまいそう。

その風情もまた寒露の時節ならではの
ずっと取って置きたいような小さな光景。

そしてこの冷たい風が
細長い日本列島の北の方から
高い山の上から 紅葉の便りを
たくさん運んで来てくれる
そんな時期でもあります。

色づいた葉とそこに止まる美しい露…
どうにかしてそのまま取り置く
方法はないものでしょうか…。

それが時間と共に失われてしまうとしても
それを心に あるいは文字に留めておきたい…
そんな思いも感じます。

言葉で切り取ってずっと取って置く…
そうすることで読むたびに何度でも
繰り返しその風情に光景に
会うことができます。

そういうことが和歌を始めとする
詩の持つ力なのかなあと思います。

日本語って本当にすてきだなあ…。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

スポンサードリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました