今日はチャイコフスキーが生まれた日

 
チャイコフスキー
 
…なのですが 
実は昨日だったりするのです。

1日遅れてしまいました 
よくあることで申し訳ありません。

ピョートル・チャイコフスキーは
1840年 5月 7日に
ウラル地方の鉱山技師の家に
次男として生まれました。

小さい頃から音楽の才能を
垣間みせていたのに 
両親はそれを無視して

サンクトペテルスブルクの法律学校へ
寄宿生として入学させたそうです。

当時はここが首都でしたから 
大都会の学校にわずか10歳で
入れられてしまったのです。

ちょっとかわいそうな気もしますけど 
欧米では極めて普通でした。

ですがピョートルさんが14歳の時 
お母さんがコレラで亡くなってしまいます。
 

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音楽の才能を親に無視されたけど…

 
曲想にも表れていますが 
ピョートルさんはとても繊細な人でしたので

離れて暮らしていたお母さんを亡くして
かなりショックだったようです。

それでもちゃんと学校を卒業して
法務省に入って仕事を始めます。

あまり職務には熱心では
なかったみたいですけれど。

いつ音楽を始めるんでしょうねえ?

19歳で就職してから ごく普通の
文官としてお勤めをしていたのですが

1861年の秋のこと知り合いから
帝室ロシア音楽協会なるものを教えてもらい

そのクラスに入ったことが 
偉大な作曲家への第一歩になるのです。

翌年にはこの音楽協会が
「ペテルブルク音楽院」に
組織改革されたそうで

ピョートルさんはどんどん音楽に
のめり込んでいったのでした。

23歳の時ついに法務省に辞表を出し 
音楽に専念する決意を固める至りました。

そして2年後の1865年の暮れ
音楽院を卒業すると 
明けて1月にモスクワへ。

「帝室ロシア音楽院モスクワ支部」で
教鞭をとるようになります。

翌年には「ペテルブルク音楽院」を創設した
恩師の弟ニコライが このモスクワ支部を

「モスクワ音楽院」に格上げし 
ピョートルさんは音楽理論講師として招かれ

以降12年に渡り ここで
教鞭をとることになります。

おおお!ついに音楽家
チャイコフスキーの誕生ですね。

まあ正確には
「音楽学校の先生」ですけれども 

2年やそこら教わっただけで
今度は教える立場になるとか 
あんまり普通ではないですよねえ…。

他の作曲家とは反対で一般の
高等教育を受けた後 大人になってから

正規の音楽教育を受けるという 
あまり多くないコースを歩んでいます。

子供のころから才能を見せていたのに 
親は別の方向を見ていたので 

本人の意志が通せる年齢まで
待つ必要があったのでしょうね。

ともあれ持って生まれた才能が しっかり
生かされるようになってよかったです。
 
 

めざましい活躍が始まる

 
主にモスクワで過ごす時間が多くて 
この間に「交響曲第1番」の初演とか

オペラの最初の作品
「地方長官」などができています。

1868年にはサンクトペテルスブルクで
いわゆるロシアの5人組に出会っています。

この人たちはロシアの民族音楽に
主軸を置く作風の人たちで 

ムソルグスキーとかボロディン、
リムスキー=コルサコフなどですね。

音楽の教科書などに 枠囲みされて
載っていませんでしたか?(笑)

チャイコフスキーさんは 作風としては
少し違いますので べったりがっつりの
お付き合いではなかったようですが 
後年の作品には若干の影響が窺えます。

そして同じ年オペラ歌手の女性と
恋に落ちて 婚約までしたのに
結局だめになってしまいました。

1875年にはかの有名な
「ピアノ協奏曲第1番」が出来上がりました。

この曲 タイトルや作曲者を知らなくても 
絶対にどこかで聞いたことのある
出だしがものすごく有名なんですよ~ん。

タイムボカンシリーズの
「ムテキング」知ってますかあ?

ところが最初に演奏を依頼した恩師の弟
ニコライには酷評されっちまいます。

仕方ないので ビューローという人に
楽譜を送って 初演してもらったら 
これが大評判の大成功になるのです。

後にニコライもごめんねって謝って
自分でも演奏するようになったそうです。

評判になったからか 資金援助を
申し出てくれるお金持ちも現れたりして
作曲家人生、すんごく順調ですなあ。

1877年に結婚したのですが 
なぜか上手くゆかず なんとモクスワ川で

自殺を図ろうとしたほど 
追い詰められてしまったそうです。

このころ「白鳥の湖」とかオペラ
「エフゲニー・オネーギン」が完成しました。

「白鳥の湖」の主旋律には どこか
暗~い印象があるなあと
思っていたんですが 深いところに
悲しい思いがあったんですねえ。

私はチャイさまのワルツは好きなんですよ 
バレエ曲にもオペラとかにも
たくさん使われていますけど 
どれもみんな好きです。

ワルツ集を持っているくらいですので。
ぬほほ…
 
 

あの暗~い曲は葬送曲だった?

 
ちょうどこのころ 作曲に専念するために
モスクワ音楽院を辞めています。

そして欧州のあちらこちらを
旅するなどして過ごし 

1880年には「管弦セレナード」や 
大序曲「1812」が完成します。

同じ年にお父さんが亡くなり 翌年には
ニコライも亡くなってしまいます。 

友人でもあったニコライを悼み1周忌には
「ピアノ三重奏曲」を初演しました。

1885年には旅をやめ 
モスクワ郊外の村に定住を始めましたが 
小さな転居は繰り返したようです。

1888年に「交響曲第5番」や
バレエ曲「眠れる森の美女」などが完成、

欧州各地で自分の曲を演奏して回ることもしました。

ところが1890年になると 
あの資金援助をしてくれていたお金持ちから
急に援助を断られてしまいます。

チャイコフスキーさんにとっては 
ショックだったかもしれないけれど 

もう有名人になってるし さほど影響は
なかったのではないかなと推測します。

実際 翌年にはバレエ曲
「くるみ割り人形」が完成してるし…

米国へ行ってカーネギー・ホールの
こけら落としにも ちゃっかり出てるし。

そうして1892年に最後の地となる
モスクワ郊外のクリンという所へ引っ越します。

彼の住んだ家は 現在では
「チャイコフスキー博物館」に
なっているそうです。

1893年 5月に
チャイコフスキーさんは サン=サーンス、
ブルッフ、グリークらとともに 

ケンブリッジ音楽協会から
名誉博士号を受けました。

ところが同じ年の10月16日 
交響曲第6番「悲愴」の初演を終えた
9日後の10月25日 

チャイコフスキーさんは
突然亡くなってしまうのです。

時の皇帝アレクサンドル3世が
国葬にすることを決定し 

帝都のカザン大聖堂で 国葬が
執り行われたそうです。

突然の死に様々な説が流れたそうですが 
今では コレラによる
肺水腫とされているとか…。

最期になってしまった「悲愴」ですけども 
初演の評判は芳しくなかったとか…。

まああの真っ暗な曲を聴いたら 
誰でも下を向いてしまいそうですけどね。

どうすれば あんな暗い曲を
書けるんだって思いましたよ 私でも。

事実上チャイさまの葬送曲に
なってしまいました。

…予感があったのでしょうか?
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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