今日は芸術家イサム・ノグチが亡くなった日

イサムノグチ 忌 ガラス窓

 
イサムノグチ 忌
 
イサム・ノグチといえば
米国でも評価の高い芸術家です。

私の拙い知識では
彫刻家だと思っていたのです。

でもそこに留まらず 庭園の設計とか
インテリアデザインとか 舞台芸術まで
その活躍のフィールドは大変に
幅広いものだったのですね。

米国人のお母さんの影響が
少なくないと思いました。

1907年にそのお母さんに連れられて
3歳で日本へ来ていますね。

ですがお父さんは別の日本人女性と
結婚されていたりするので…?お?

違うですわ お父さんてば
家の女中さんに手をつけたのね~~っ!

お父さんはヨネ・ノグチのペンネームで
英語でも詩を書ける詩人でした。
 

スポンサードリンク

 

さすが米国人のお母さん

 
米国にいた時 現地の新聞に
自作の詩を発表したり 
詩集を出版して好評価を得たりして
いたことがあったそうです。 

広い米国をあちらこちら
転々としていたようですね。 

で、ニューヨークでボーイをながら 
詩作をしている時に

作家であり教師でもあった
レオニーさんと運命の出会いを
果たしたのでした。

ところが直後に出版した本のお金で
ロンドンへ行っちゃってるんですよ。

もしかしてイサムさんが生まれたことは 
後から知ったんじゃないでしょうか。

せっかく日本に来たのに 
別の女性との間に子供が出来たりしたせいか

1910年にはイサムさんと
お母さんは引っ越していきます。

日本で母子家庭になっちゃいましたが 
横浜のインターナショナルスクールに
イサム・ギルモア(お母さんの姓)の名前で通学し

この時自宅の設計、建築に
関わったそうで 小さいのに
すごい修業を積んだものです。

お母さんは米国で学校の
先生をしていた人でしたから 

一時期イサムさんに
日本の学校を休学させて
自分で教育を施しながら 

指物師の修業なども
させているんですね。

こういうところが芸術家の
豊かな素地に繋がっていくのでしょう。

高校からは米国へ戻っていますので 
芸術家志望の若者ならこちらの方が
環境としては整っていたかもしれません。

高校はトップの成績で卒業したそうで 
現地で親代わりをしてくれた人の世話で
彫刻家の助手になりますが 
彼とは馬が合わずニューヨークへ戻ります。

芸術家同士って難しいんですよ、
本人が強く惹かれて 傍に居たいと
望むような出会いでないと
上手く行かないことが多いです。
 
 

もう一つの母国、米国での日々

 
1923年お母さんも米国に帰ってきましたし 
コロンビア大学の医学部に入り(!)

ここに在籍しつつ 別の美術学校の
夜間の彫刻クラスもとったそうです。

で 入学後すぐに初の個展を開いたそうです。

なんでまた医学部だったんでしょうねえ。

美術学校の先生からは
彫刻に専念した方がいいと
勧められたそうで 
当然と言えば当然ですね。^^

ここからですよ イサム・ノグチの名を
各方面へ知らしめるキャリアのスタートは。 

日本人舞踏家のための仮面制作、
グッケンハイム美術館の奨学金でパリへ。

ロダンの弟子に弟子入り…でも
資金が尽きて米国へ帰ることに…。

第二次世界大戦中は 
在米邦人が辛酸をなめた
収容所へ自ら入るのですが

日米の混血であるため 収容所内で
辛い思いをしたそうですし 同じように
混血を理由に収容所から出ることも
認められなかったそうです。

後に米国人の芸術家仲間の嘆願で
出所が叶ったそうですけれども 

イサムさんに限らず ダブルの血は
本人のせいじゃないでしょうに…ねえ。
 
 
苦難を乗り越え名声は世界規模
 
戦後「ノグチ・テーブル」とか
日本の岐阜提灯がモチーフの
「あかり」シリーズのデザインとか 
インテリアデザインにも進出。

さらに北大路魯山人に陶芸を学ぶとか 
あまり長くはなかったですが
山口淑子(李香蘭)と夫婦を
していたこともあります。\(◎o◎)/!

広島平和記念公園の東西両端にある
橋のデザインもイサムさんが手がけました。

この後1961年からは米国に戻り 
IBM本社の庭園設計やシアトル美術館の
彫刻「黒い太陽」設置、
東京国立近代美術館の「門」を作ったりとか。

この「門」直に見ました! 
イサムさんの作品とは知りませんでしたけど。

作品に使った石が縁で
香川県の牟礼町にアトリエを構えて 

米国ニューヨークとを
行ったり来たりして 作品を手がけました。

1970年の大阪万博の噴水とか 
東京裁判所の噴水とか 設置しています。

大学やら市長やら米国やらから
名誉博士号や勲章をもらっています。

もちろん日本からも
京都賞の思想・芸術部門賞を 
最晩年の1988年には
勲三等瑞宝章を受勲しています。

同年に札幌市のモエレ沼公園の
設計に取り掛かりました。

公園全体を一つの彫刻作品に見立てた 
最大規模の作品になる予定でしたが

完成を待たずに1988年12月30日 
心不全のためニューヨーク大学病院で
84年の生涯を閉じました。

イサムさんが見れなかったのは残念ですが 
マスタープランから16年を経て
モエレ沼公園は完成し 
2005年にグランドオープンしました。

牟礼町のアトリエも
ニューヨークのアトリエも 
イサム・ノグチの名を冠した
庭園美術館になっています。

どちらも遠くて簡単には
行かれそうもないから 

東京国立近代美術館の
「門」あたりをもう一回
お参りして来ようかな。(笑)
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

スポンサードリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました