10月 4日 今日はあの「ゾルゲ」が生まれた日

ゾルゲ 生誕 ガラス窓

 
ゾルゲ 生誕
 
もっとも生まれた時は誰だって
普通の赤ちゃんでしたけど。

1895年の生まれですから
120年以上も前ですね。

ゾルゲといえば
スパイの代名詞みたいな
人ですけれども 

どこのスパイだったかというと
ソ連なんですね。

本人は3歳の時にドイツへ移住した
ロシア系のドイツ人でした。

年齢的には第一次世界大戦にも
志願して従軍してますし

1916年 有名な西部戦線で
けがをしてしまったそうで 

その病床でもって
「赤っぽい看護婦さん」
(どんな人なのよ?)から 
社会主義の話を聞いたのだそうです。

怖くて痛い思いをしたし
きれいだけど「赤っぽい」
看護婦さんが優しく講義をして
くれたのかしらん?ぷぷぷ…。
 

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赤っぽい看護師さん 効果絶大

 
そして間もなく
「ロシア革命」が起きたのですね。

で、ベルリン大学、キール大学
そしてハンブルク大学で
最優秀の評価をもらい
政治学の博士号を取っているそうです。

政治学という過去の権謀術数を
学びまくったんですね。

病院を出たころは もうすっかり
真っ赤っかに染まっていたのね。

「赤い思想」は理想論が多いから
若い脳みそはきれいに染まるのよ。

素晴らしいことの様に思えるんだろうねえ。

ドイツの共産党から 
親玉のモスクワへ派遣されて

そこで赤い軍隊の諜報部に
配属されたのは1924年のことでした。

ここでどのような訓練を
受けたのかはわかりませんが

とても優秀なスパイだったことは
間違いないですね。

1930年に各国のスパイの
巣窟だった上海で活動を開始します。

その時にはドイツの有名な
新聞社の記者ということで

すぐに現地のリーダーになって 
スパイ網を構築したそうです。

流ちょうな日本語を話したそうで
上海では諜報団の要員として
日本人もしっかり組み込まれていました。

ゾルゲは諜報活動だけでなく
破壊工作もやっているようですね。

蒋介石の飛行機を爆破したり
武器を横取りするなどして

仲間だった八路軍(中国共産党の軍)の
支援をしているそうです。

このころ上海租界にいた英国警察は
ゾルゲをスパイでないかい?と
疑い始めて 1933年の5月には
断定に至ったそうですが 

当のゾルゲは前年の暮れに
モスクワへ帰ってしまっていました。

ゾルゲの方も足がつきそう…?と
嗅ぎつけて 間一髪トンズラしたのかしら?

そして日本での諜報活動のために
今度はドイツの新聞特派員で
ナチス党員という肩書で
日本にやってきて 横浜に住みつきます。

1936年の2・26事件の時は
ドイツ大使館にいたことが
分かっていますし 本当に
ドイツ人のふりをしていたんですね。

何も知らない大使さんやらに
信頼されることで機密文書などを
見ることもできたようで

本物のドイツ人すらだますとか
本当にすごいですよ。

しかも日本の共産党員とは
絶対に接触することなく
ロシア語も一切口にしない
という徹底ぶりだったそうです。

情報はその外交官特権が効いて
中身を検閲されない

クーリエ(外交伝書使)が
使われたほか 手製の短波送信機で
ウラジオストクに送信されていたとか。

しかもわざと住宅密集地の
あちこちに隠れ家を用意して

発信源の特定が困難なように
移動しながら送信するという
念の入れよう。

プロの手口は違いますなあ。

本当に感心しちゃいます。
 
 

だまされてばかりではなかった

 
日本の特高も怪しい電波の
発信は知っていたものの

暗号を解読できなかったので
一味を捕らえることはできませんでした。

こ…言葉の壁か…?

今も昔も「敵国の言葉」を
習得するのは
諜報活動の第一歩なのねえ…。

でも一応日本側だって
やられっぱなしではなかったのですね。

米国の共産党員の繋がりの方から
内定を進めて 地道に証拠を集め 
とうとう尻尾をつかみ
芋づる式に逮捕に至りました。

一連の逮捕劇にドイツの大使さんは
ゾルゲのことをすっかり信用していたので
正式に抗議したほどだったそうです。

関係者として取り調べを受けた人の数は
数百人にものぼったそうです。

初めはしらを切っていましたが
証拠を並べられて 

ゾルゲはついにソ連の
スパイであることを認め
1942年の一審で刑が確定しました。

どうして一審だけで結審したかって? 

当時は戦時下でしたし 諜報活動は
「外患誘致罪」という罪なのですが

これは裁判になった時点で すでに
有罪が確定しているようなものなんですね。

でもって「有罪=死刑」という罪なのです。

裁判といってますが
実際には「処刑宣告」みたいなもんですな。

戦時法ですが 個人的には
平時にも適応してほしい気が…もごもご…。

そしてこれはわざとなのか
偶然なのかわかりませんが

1944年11月 4日
ロシア革命の記念日に
死刑が執行されています。

忠誠を誓った思想に殉ずる者への
日本流の心遣い?と思ったのですが
考え過ぎかな。

彼の最後の言葉は日本語で
「ソビエト赤軍 国際共産主義万歳」でした。

まるで小説のような話ですが
本当にあったことなんですね。

諜報活動に従事する人って
ある意味でとても優秀な人という
印象があります。

その優秀な頭脳なり 才能を
もう少し別の方向に使っていたならば

また全然違うよい結果を
生んだのではないかと思うのですが…。

人や人の頭脳や才能の使い方が
とても勿体なくて
残念な気がするのです。
 
御読みいただきまして ありがとうございました。
 

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