今日はウィンストン・チャーチルの誕生日

チャーチル生誕 ガラス窓

 
チャーチル生誕
 
1874年の今日11月30日に 
英国はウッドストックのブレナム宮殿で

後に首相となる
ウィンストン・チャーチルは
生まれました。

この日は聖アンドリューの日とかで 
お祖父さんに当たる公爵さんち(宮殿)で
舞踏会が開かれる予定だったんですと。

生母は米国の富豪の娘ですが 
お父さんは侯爵家の生まれなんですねー。

それと… 何だかご両親が結婚して
7ヶ月半で長男が生まれちまったそうで

あらあら… 月足らずで…まあ。 

おまけに男の子だったりしたので
隠すわけにもいかず…おほほほ…。

最初は身分が違うとか 
反対されたそうですけども…。
 

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首相になったけど スタートは落ちこぼれ

 
お相手のお嬢さんちが
お金持ちだったので 栄光ある
英国貴族も折れたんですかねえ。

貴族でも庶民でもみ~んな
お金は大好きですから。

スペンサー=チャーチルというのが
正しい苗字だそうで。

だけど英国の法律では 
サーの称号を名乗れるのは嫡男で家督を
受け継いだ当人だけなんだそうです。

つまり本家筋(嫡流)の
当人しか名乗れないんですね。

階級社会だから仕方ないけど 
何だかとてもシビアに感じます。

まあ下手に有象無象みんな許すと 
相続で揉めそうですからね

一つに絞っておいた方が
合理的かもしれません。

でもさすがに侯爵家なだけあって 
生まれたお城はすごいですね。

んでもって私たちなんか
歴史の教科書に載っている 丸い顔の
おっさん姿しか知りませんけど 
若い頃はイケメンだったですねえ。

同一人物とは思えない まるで別人ですがな。

白人の若い頃の写真を探すのは 
期待を膨らませながらの作業です。

ずっと以前旧ソ連のお偉いさんが
亡くなった時 若い頃の写真が
テレビの画像に出てきて
衝撃を受けまして それ以来です。

こんなの詐欺ぢゃあないのーっ?!て
くらい違いますから。

え~っと …チャーチルさんでしたね。
子供の頃はあまり勉強熱心ではなかったようです。

落ちこぼれだったそうで 父君は
早くから軍人にでもするしかないと
思っていたようで 王立陸軍士官学校に
3回目でやっと合格しました。

見た目はすごくよかたんだけどなあ…。
(誰もみんな良かったのか)

そうそうこの頃の女王陛下は 
ヴィクトリアさんだったんですよねえ。

20歳時に父君と乳母を亡くすという
悲しみを味わっています。

とにかくチャーチルさんの歩む人生が 
近代の歴史そのものなので

どれを取り上げればいいのか
悩むほどトピックの多い人生ですねえ。

長寿を全うされていますし。

3回目で合格した王立陸軍士官学校では 
軽騎兵連隊に所属しました。

そこで第二次キューバ独立戦争を
観戦したのだそうです。

当時は英国領でしたが 
インドの反乱の鎮圧戦や 
スーダンへの侵攻やら
第二次ボーア戦争に従軍しました。

日本人にはなじみのない
ボーア戦争ですが これは現在の
南アフリカ共和国の方で
起きた戦争のことを指すようです。

こういう話を聞くと 英国は
本当に日の沈まない国だったんだなあと。

それを維持するためにも 相当な
苦労があったんでしょうな。

そもそものやり方がやり方なだけに 
積年の恨みとかも小さくないでしょうし

持たざる者にはわからない苦労ですが 
しなくてもいい苦労とも思えますな。
 
 

政治家への道

 
1900年に保守党から当選して
初めて議員になりました。

間もなく1904年には
自由党へ移籍しまして こちらでは
およそ20年間在籍して 
議員活動を行っています。

歴任した大臣も様々で英国には 
こんな名前の大臣ポストがあるんだなと。

で、首相に就任するのは
1940年なのですが 1924年からは
また保守党に戻っているんですよ。 

こういうのって自由に
動いちゃっていいんですねえ 英国では。

1945年まで一番大変な時の 
英国のかじ取りをした人ということですね。

あ…そのあとの方が大変だったかもしれないなあ。

日本とかいうちっぽけな国が 
大英帝国の植民地の近辺でわーわーと
暴れたもんだから 現地の有色人種が
すっかり勇気付けられちゃって
独立するぞ~とか言い出したんですからね。

ま 典型的な白人さん思考で
「優等文明は劣等文明を支配・指導する」という
理屈が根底にあったもんですから 
絶対許すことはできなかったんでしょうね。

他の民族からみれば 
ほっといてくれんかねえと
言われそうですけども 
こういうこと本気で考えていたんですよ 
当時の白人は。(今でもそうかも…)

1951年には不死鳥の如く 
またもや首相に返り咲いています。

知らなかったけど 1953年には
ノーベル文学賞ももらってるですと。

子供のころから勉強は苦手で 
気分にむらがあり集中力に
欠ける所があったため

名門「ハーロー校」には校長先生の
「裁量」で入学したんですと。

ただし名門の「落ちこぼれクラス」に
在籍したので 古典とか難しい教科は
免除されて 英語だけに
集中していればよかったみたい。

結果的にそれが功を奏して 
詩を書いたり文章を磨いていく
ことになったようです。

本人はノーベル平和賞が
欲しかったらしいんですけどもね。

そして1964年のちょうど今頃 
市民の前に元気な姿を見せたのを最後に

翌年の1965年1月初めに脳卒中で倒れ 
1月24日父君と同じ日に永眠。

波乱万丈の人生を生き抜いた90年でした。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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