今日はヒエログリフを解読したシャンポリオンの誕生日

シャンポリオン 生誕 ガラス窓

 
シャンポリオン 生誕
 
大変な語学の才能を示したそうですが 
もしかして熱中するタイプの
人だったのでは…?と想像するのです。

非凡な語学の才能が しっかり機能して
本当によかったですね。

ジャン=フランソワ・シャンポリオンは
1790年の今日12月23日に

フランス中部より 少~し
南寄りの街で生まれました。

9歳でラテン語が話せたといいますが… 
母国語が仏語なのだから…そんなに
難しくはないと思いますがねえ…
頭の柔らかい子供時代ですし。

でもラテン語は古典みたいなもので 
古い文章とかは小難しいでしょうから 
一般の人達はきらいだった
のかもしれませんけど。
 

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語学の天才が出会った謎の碑文

 
まあ語学に関しては
天才的だったのでしょうね。

その後 高等学校で中国を含む
たくさんの古代の言葉を学んだそうです。

でもって18歳の時には すでに
出回っていたロゼッタストーンの写しの
一部を手に入れていたのだそうです。

さらに20歳のころにはギリシャ ヘブライ 
サンスクリット アヴェスタ パフラヴィー 
アムハラ アラビア シリア ペルシャ 
中国語などを習得していたそうで。

へええ…本当に古典というか 
古い言語が多いようですけども 

一部どこら辺りで使われている言語か 
わかんないのもありますが 恐らくは
おフランスが「植民地」にした
国の言語でしょうね。

日本語がないのはそこら
あたりが関係していそうです。

おや 知事さんのつてで 
本物のロゼッタストーンを
見る機会も得たのですねえ。

今の私たちから見れば 
コプト語なんて東洋ではなく
完璧なアフリカの言語ですわん、 
だってエジプトの言葉ですから。

でも当時の欧州人からみれば 
ざっくりと東洋になるんでしょうね。

ロゼッタストーンは1799年に
発見されましたが 実物はかなり大きいです。

巨大な石の柱の一部だったようで 
元々は神殿にあったものを 古代ローマか
それ以降の時代に運び出されて 

ロゼッタという街の近くの要塞を
作る材料として使われていたらしいです。
(ったく神殿から持ち出すんじゃないよ 
罰当たりどもめが!)

エジプト遠征中だったナポレオンの
部下が発見したんでしたよね。

訳のわからない言語二つとギリシャ語の
碑文だというのは かなり早くから
わかっていたみたいなのですが。

でも大きく欠けているし 三つの言語の
関連がわからなかったしで

大変だったでしょうね でもだからこそ
研究者を夢中にさせたのでは…と。

若きシャンポリオンも1809年19歳で
すでにグルノーブル大学で
歴史学の助教授になっていましたし 

ロゼッタストーンの写しも持っていたし 
実物も見る機会があったし…で 
たぶん夢中になって研究したんでしょうねえ。

そんな天才的な言語感覚を持ってしても 
ヒエログリフの解読ができた!と
発表するのに13年もかかっているんですよ。
 
 

古い文字からすっかりエジプトの虜

 
もちろん他の研究者も
先を争って取り組んでいました。

ロゼッタ・ストーンといえば
ヒエログリフがあまりにも有名ですが

この文字とギリシャ語 そしてもう一つ文字が
刻まれていたんですね。

それはデモティックと呼ばれるもので 
古代エジプトでは使われていた文字が
3種類あったのだそうです。

社会の中で 属する階級によって
使える文字が 違っていた
のかもしれませんね。

識字率の方はどうだったのか 
ちょっと興味がありますけれど。

ヒエログリフは神聖文字
という風に訳されますが 

それを筆記用にした
ヒエラティックが神官文字、

そしてその筆記用の文字を
さらに簡略化したのが 
デモティックと呼ばれる
民衆文字なのだそうです。

たぶんギリシャ語は当時の
公用語だったのではないでしょうか。

神殿を訪れるすべての人々に分かるように 
3種類の文字で碑文を刻んだのですね。 

シャンポリオンはヒエログリフの
解読を発表した後 
2年ほどイタリアに滞在して 

トリノ・エジプト博物館から 
古代エジプトのパピルスや芸術品を
いくつか提供してもらい 
さらに精力的に研究を続けました。

そして1824年に
「ヒエログリフの体系概説」を
まとめて発表するに至ります。

さらにルーブル美術館の
エジプト美術部門の創設を担当しました。

ヒエログリフから もうすっかりエジプトに
取りつかれてしまっていますね。

そしてついに現地へ足を運ぶのです。

1828年と1830年に長年の念願だった
エジプトへ調査旅行に出かけます。

自分で解読したとはいえ 外国のそれも
古代遺跡の碑文とかすらすら読めたら
それは楽しい旅行でしょうねえ。

遊びに行ったんじゃないって
わかってますけど。

やっぱり研究の成果を実感するのは 
とても大切なことだと思います。

そして仏国に戻り1831年の5月からは 
コレージュ・ド・フランスの
(国立の特別高等教育機関)
古代エジプト学の教授に就任します。

ところが…1832年コレラに罹患して 
41歳の若さで世を去ってしまいます。
ええええっ \(◎o◎)/! 

これからって時に…なんてもったいない。

早くから語学の才を爆発させていたのは 
こんな結末が待っていたからなの?

早逝は天才の常なのかもしれませんが 
何とも勿体ない話ですね。

もっと長生きしてくれていたら 
どんな業績を残してくれたことか…

世界には解読されていない文字が
たくさんあるというのに…。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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