今日10月 1日は名高い「ウィーン会議」が本格的に開かれた日

ウィーン会議 ガラス窓

 
ウィーン会議
 
おっと 1日遅れの
記事になってしまいました。

今日10月 1日はそれまで
準備会議の位置づけだったものが
本当の「ウィーン会議」に
入った日なのだそうです。

それでも踊ってばかりいて 
全然前に進まなかった会議として
後世にその名を轟かせていますけども。ぷぷぷ…。

フランス革命からナポレオン戦争まで
欧州の大地はずいぶんと
たくさんの人の血を吸いましたからねえ。

その戦後処理を話し合う会議だったのですが
お集まりになったのが
主に貴族のみなさまでいらっしゃいました。 

彼らのご先祖さまたちが
必死に戦ったり守ったりして

築いてきた秩序と
国境と自分たちの特権を
危うくぐちゃぐちゃにされて
分捕られるところでしたからねえ。
 

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「ウィーン会議」が歴史的なのは…

 
それにしても準備に1ヶ月をかけたのに
最終的に「ウィーン議定書」が
採択されるまでに10ヶ月もかかるなんて

時代とはいえ ずいぶんと
のんびりしたものだったのですね。

場所がシェーンブルン宮殿では…
夜毎に すんばらしい舞踏会が
開かれたことでしょうねえ…。(‘;’).。o○

お給仕でいいから 
その場にいてみたかったなあ。

…というか宮殿の素晴らしさに
立ちすくんでいたかも…。

それ以前に天下ごめんねの方向音痴な私が
やらかしそうなのは 

あの広大な庭園で迷子になって
宮殿に辿り着けない可能性も 大。(..)

まあ 本当のところは 
のんびりでも優雅でもなんでもなくて

権謀術数渦巻き 各国の利害が
火花を散らす 戦場だったかも。

実際の君主のみなさんが
集まったわけじゃなくて

全権大臣のような形で
政治家さんたちが集まったのだろうし

自分とこの国やら権利やらが
削られたりしたら 自分の首が
飛びかねないですから。(=_=)

大国も小国も自分に有利に
あるいは主導権を握るために

持てる技 使えるカードを
出しまくっていたでしょうから。

一番がんばったのは敗戦国の
フランスだったのですね。

タレーランという名前になんとなく
聞き覚えがありますよ。

この「ウィーン会議」で上手に立ち回って 
フランスの国益を守りました。

上手にというかこの人は
卓越した外交感覚の持ち主だったようで
老獪な政治家だったんですね。

今でも外交的な成功とか
巧みな外交戦術などには
この人の名前で比ゆされるほど 
優れた外交官だったのです。

そうそう忘れてはいけないのが 
この時にスイスは「永世中立国」を
認められたのですね。

ちなみに「永世中立国」というのは
「戦争しません」とか「戦いません」
という意味ではないことを
付け加えておきます。

「特定のどこかの味方はしませんよ」
という意味なので

「他国の軍隊は一歩も
国内には入れないし
通過させませんからね」
ということです。

もし他国の航空機が許可なく
領空に入って来たら
「撃ち落とす」そうです。

全国民は銃などの扱いを
みっちり訓練されるし
いざとなったら国民全員が戦闘員。

頑丈な地下壕があり 全国民が
数年もの間 立てこもることができるほど 
兵站(へいたん)の備蓄が
整っているといわれています。

それがスイスの宣言した
「永世中立国」ということです。 

日本人の中には何とな~く
平和ボケしたイメージで

思いっきり勘違いしている人が
少なくないみたいなので
あえて書かせていただきました。

大国に囲まれた内陸の小さな国が
「永世中立国」の宣言をするとか
とても勇気の要ることだなあと
改めて思います。

まあこれといって
産業などなかったスイスは
昔から「人」が国を支えて
きたのだそうです。

当たり前じゃんとか言わないで下さいよ。

若者を「兵士」として 
近隣の国々に送り出していたのです。

今現在もバチカンの法王庁などを
守る衛兵は スイス人と
決まっているそうな。
 
 

「ウィーン会議」が果たした役割

 
遅々として進まなかった
会議の代表みたいな
「ウィーン会議」ですけれど

歴史的に血で血を洗ってきた
欧州の国境やらが「力の行使」ではなく

「会議」によって
決められることの意義は
大きかったと思います。

国際会議と聞いて 
今の私たちがイメージするような

大きなホールで
みんなが集まって行う
全体会議みたいなものでは
なかったようですね。

舞踏会が開けるような大広間があるのに
そういうことには
使わなかったみたいです。

たぶん人数が多くなると
取りまとめが難しくなるからでしょうねえ。

ただでさえ自分の意見をひっこめるとか
折れるとかいうことを知らないのに

国益と自分の首を背負って
来ていた人たちの集まりでしたから。

そんなかなりぐだぐだな
「ウィーン会議」に 変化が起こったのは
年が明けてから。

1815年の3月に
あのナポレオンがエルバ島を
とんずらしたという
情報がもたらされたのです。

出席者も本国もみんなびびったらしくて
各国から妥協が出るなどして 

6月 9日にウィーン議定書が採択され
歴史的な会議が幕を閉じました。

もしもナポレオンが脱出しなかったり
その報告がもっと遅れて
届いたりしていたら
ずっと続いていたかもしれませんね この会議。

何と言うか議題が議題なだけに
簡単には決められないので

ちんたらと会議と舞踏会を
交互にやっていたような
そんな感じです。

日本企業は会議ばっかりしてて
意思決定が遅いとかぬかしやがるけど

ウィーン会議よりか 
ずっとましだからね、

少なくとも 
舞踏会は開いてないんで。(笑)
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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