今日は知の巨人 南方熊楠が亡くなった日

南方熊楠 忌 障子窓

 
南方熊楠 忌
 
南方熊楠という人を言い表すのに 
一言ではとても無理です。

破天荒な人 常人ならざる
記憶力によって辞書を
自作しちまった人。

幅広い知識で複数のカテゴリを 
縦横無尽に駆け抜けて行った人。

ただ残念なことに
研究結果を論文として 
まとめることをしなかったため

偉大な業績を残しながらも 
在野にして独学という
範疇を出ていなくて

世間の評価がいまいち
芳しくない気がします…。

本当に残念!!

博学者として有名な
南方熊楠さんですが 

主なフィールドは
植物学と地衣類 
粘菌などの研究のようでした。

とても たいへん すごーーく
変わった人だったようですね。
 

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知の巨人はどんな人?

 
癇癪持ちで それを抑えるために 
何か別の物に熱中する必要があった…。

もしかするととても真っ直ぐな人で 
自分が正しいと思ったことは
曲げられないし 妥協できない
性分だったのかもしれません。

緊張したり 恥ずかしがったり
することを恐れたため 

飲酒が過剰だったり
警察のお世話になったりするなど 
ちょっと困った面もあったようです。

口より先に手が出てしまう癖は 
日本にいる時だけではありませんでした。

英国に居た時のことですが 
大英博物館の図書館で

閲覧者に人種差別発言をされ
大勢の人の前で相手に
頭突きを食らわせたそうで 
入館禁止3ヶ月の処分。

ところが1年後に また同じ奴を
ぶん殴ってしまって 
博物館を首になりそうに…。

なんてったって記憶力が
普通じゃないので たぶんしっかり
覚えていたんでしょうね。

この時は 熊楠さんの才能を
惜しんだ英国人たちが 
嘆願して復職できたのでした。

いろんな方向へ突き抜けた人
だったのかもしれません。

論文などをまとめることは
苦手だったようですが 

標本を集めることと
図や解説などをびっしりと
書き込むなど 目の前にあることを
書き表すことには
長けていたようですね。

とんでもない記憶力の持ち主で 
本を覚えて写し書きを
するとか普通じゃない…。

また読んだ本も半端な量では
なかったそうですし 読んだ内容を
覚えていてまた書き出すなんて 
どんな頭の構造をしているのか…
信じられません。

この驚異的な記憶力は 
外国語の習得にも役立ったみたいです。

英語の他に 仏語 独語 イタリア語 
ラテン語 スペイン語も
操ったそうですが 書くことが
できたのは英語だけだったようです。

地頭(じあたま)が良くなければ 
当然こんな風にはなれませんから

やはり並外れて優れた
頭脳の持ち主だったのは 
間違いないと思います。

まあ東京帝国大学の予備門時代に 
中間テストで落第したりしてますけれど

興味のないことは 何もやらない
人だったようなのです。
 
 

枠にハメられないスケール

 
結局この時 学校を中退して
帰郷してしまったのですが 

もしもきちんと勉学に励んでいたら 
また別の道が開けていたかもしれません。

だってこの予備門の同級生が
すごい人たちだったんですよ、

夏目漱石でしょう 正岡子規に秋山真之、
寺石正路とか もお錚々たる
メンバーですからねえ。

英語はあの高橋是清に
教わっていますし…。\(◎o◎)/

この中退と帰郷が どういう
きっかけだったのか 彼は目を
海外に向けるのですね。

同じ年の暮れに横浜から
船で渡米しています。

もしかすると早くから
外国へ行ったことが 熊楠さんの
研究の幅をより広げることに
つながったのかもしれません。

勉強は嫌いだったようですし 
好きなことに熱中し 
それしかやらないタイプだったので 

好奇の目で見られても
欧米の方が居心地がよかったのかも…。

言い方が悪くて申し訳ないですが 
変な人でしたがラッキーだったのは

比較的裕福な家庭環境で 
次男坊というある意味
気楽な立場だったし

本当に自由に好きなことだけに 
生きることができた人でしたね。

ほぼ一生涯の間 定職に就くことは
ありませんでしたけど 

生家のおかげで 豪勢な暮らしでは
なかったものの 
生きて行かれましたから。

恐らく本人には
こんな暮らしがしたいとか 
豊かに暮らすとか

そういう関心は 
なかったのではないかなと。
 
 

好きな研究漬けの毎日

 
英国から帰国したのが1900年で 
その後はずっと故郷で暮らしています。

相変わらず植物採集や
標本を作ったりの日々でしたが 

身を固めましたし
子供も生まれましたし 
柳田國男と文通を
始めたりもしています。

本も書いていますし 
新しく発見した菌類に
名前をつけてもらったり

何だかとても学者っぽいというか 
研究者っぽい生活をしていますね。

論文は苦手だったと書きましたが
世界的に有名な科学雑誌「ネイチャー」に
掲載された論文はおよそ50本で 
日本人の最多記録保持者だそうです。

傍目には何をやってるのか 
よくわからない人だったかもしれませんが

1929年には 昭和天皇が
紀南を行幸された折 

拝謁の栄誉を賜っており
粘菌の標本を献上したそうです。

そして日本が戦争に突入した
その12月も押し詰まった今日29日
自宅で74年の生涯を閉じました。 

死因は萎縮腎だったそうです。

もしかすると熱中するあまり 
長年の無理が祟ったのかもしれません。

熱中人の気持ちなら もっともっと
研究を続けたかったかもしれませんね。

詳しくは分からないのですが 
熊楠さんが飼っていた亀さんは
2001年まで生きていたそうで 

もちろん100歳は
優に超えていたはず…。\(◎o◎)/!

ダーウィンの亀さんもそうでしたが 
リクガメの仲間はとんでもない長寿ですな。

昔の人達も知っていて 
それで「亀は万年」と
いうようになったのでしょうね。

熊楠さんの残した膨大なメモや
日記 手紙などから 今でも
彼の学問を推測する努力が
続いているそうです。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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