今日は衣川館で源義経が命を落とした日

 
義経忌
 
ちょっと古い日本人が 大好きな
悲劇のヒーローにまつわる日です。

源義経さんは 兄 頼朝さんの命により
討伐の対象となり 衣川館に追い詰められ

1189年の今日 4月30日 
31年の短い生涯を閉じました。

少ない史実とてんこ盛りの伝承と
だったらいいなをごちゃ混ぜにして

後から生まれた日本人たちが
みんなで作り上げました。

自分たちがもっとも好む形の
悲劇のヒーロー像に うんうんとうなずく

「判官贔屓」なる言葉まで
作ってしまいました。

ドラマチックで短い生涯は 
揃い過ぎているのです。

源氏の棟梁の忘れ形見で 
生母はその美貌で 敵すら
籠絡して生き残った女性でした。
(「美人は得」の典型)
 

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悲劇に向かうヒーローは 美化され易い

 
お寺に預けられ鞍馬山で
天狗相手に修業を積んで 

遠く奥州へ落ちのびるも
兄の挙兵に馳せ参じ 数々の武功を
上げついに宿敵を滅ぼした…

までは良かったけれど その兄との
仲違いが悲劇へと繋がっていく…。

たった31年の生涯の中に 様々な要素が
ぎゅううっと凝縮されています。

壇ノ浦の合戦が1185年の3月でした。

それからたったの4年ですよ、
たった4年で英雄から
討伐の対象ですからね。

もちろん人間同士の間では 
長く時間をかけて培ってきた信頼なども

一瞬で水泡に帰すことはありますが 
それでもねえ…。

なんだか平氏を滅ぼすためにだけに
登場したような感じすら受けるのです。

もう少し信用に足る史料が残っていたら 
義経さんという人の人物像が
また違う印象になっていたかもしれません。

義経さんの場合 たぶん短すぎる
人生ゆえ史料が少ないのでしょうねえ。

もしも仲違いせず ともに鎌倉幕府で
働くなどしていたら伝説伝承の部分は

多少なりともそぎ落とされて 
実像がはっきりと伝わっていたかも…とか
妄想がやめられない 止まらない。

それにしても頼朝さんは討伐を命じるほど 
何を怒っていたんでしょうね?

一回り年の離れた異母兄弟で 
数回会っただけの間柄です。

たしかに義経さんも 独断専行で
命令に従わなかったとか(←これは大問題)

東国の武将を勝手に処罰したとか 

ありゃそれをやっちまったかい…と
思えることは 結構やらかしてはいますけど…。

義経さんにとって 頼朝さんはすごく憧れの
存在だったのかもしれないなあと。

当代随一の美女と誉れも高かった母君 
常盤御前から繰り返し言い含められていて 

しっかり洗脳じゃなかった 
すっかりその気になっていたのでしょうね。

まだ見ぬ兄上と一緒に 
亡き父上の仇、平家を討ち滅ぼすと。

そのために鞍馬山では天狗さんから
指南を受けて 稽古を
つけてもらいましたからね。

今は平家のせいで 
不遇をかこつ身の上だけど 
僕には素晴らしい兄上がいる! 

源氏の棟梁だし 平家を打ち倒して 
いつか兄上のお傍で働きたい!

とか 目にいっぱい星を浮かべて
ろくに顔も見たことのないお兄さんを

必要以上に英雄視して 憧れを
抱いていたのではないかなと 勝手に妄想。

好き過ぎて 舞い上がってばんばったら 
思いの外 活躍できちゃったりしたので

あれ?僕ってすごくない?いいかも~とか
思っちゃったのかしら。

自分の戦法が上手く行って ガシガシと
成果が上がったら やっぱり少しは
お鼻も高くなっちゃうかもしれませんね。

常に頼朝さんの傍にいる状態だったら 
武功もそんなには上がらなかったし

他の武者さんたちとの駆け引きというか 
一緒にやっていくための仲間意識というか

そういうものも学べたのでは
ないかなと思うのですね。

義経さんが立てた武功は 
頼朝さんと離れている時ばっかりなのです。

何と言いますか 義経さんが一人で 
あるいは独断で決行した方が

武功に繋がっている…というか 
やっぱり彼の戦いの
センスの良さなんでしょうね。
 
 

武功を立てるほど 心が離れた…?

 
活躍の場が 関西方面中心で
東国武士はいい所を 
あまり見せられなかったので

面白くないと思っていた人たちも
少なからずいたと思います。

でもたぶん義経さんには そこら辺まで
気が回らなかったのではないでしょうか。

若いですし 自分のことで
精いっぱいだったでしょうし 

奥州ではたぶん下へも置かない扱いを
受けていただろうと思われますので 
人の気持ちに疎かったのではと。

武人として戦いは上手かったけれど 
政治的な見方というか考え方 

つまり自分がこう動けば 
周りはどう思うかとか 考えるかといった

推し量るところあたりに 少し配慮が
行かなかったのかなと思うのです。

なので頼朝さんの命令を聞かなかったり 
東国武士に対して勝手に処罰を
したりしてしまったのではないでしょうか。

義経さんにとっては 必要と判断した上での
行動だと思うのですが

立場が変われば見え方や印象 意味がまるで
変ってしまうものですからね。

東国から義経さんのやっていることを
見ていた 頼朝さんにとっては

おいおいと笑いながら言っていたのが 
いつの間にか こ…こらーっ!!に
変わってしまったと。

やっぱり東国武士を束ねる立場上 
身内には必要以上に厳しく当たらないと

示しがつかないとか そんな事情が
あったんでしょうかねえ。

身内であるがゆえに 穏便には
済ませられなかった…というのであれば

頼朝さんにとっても 苦渋の選択だった
かもしれないから 少しは
同情の余地もあるかな。

若気の至りで許して
やれなかったんですかねえ…?

それが責任の取り方だったんだ
ということはわかってはいるけれど

何も追い詰めて自害させるこたあ
なかったんじゃないの…?

捕まえたふりをして こっそり
どこかへ逃がしてやるとか 

出家させるとか 捕まえた上で
処刑したことにして島流しにするとか…

死なせちゃうようなことまでしなくて 
よかったんでないの?

…というような同情的な感情のことを
「判官贔屓」というのです。

で、恐れ入ったことに 義経さんのお話に
ついてだけは 同じ漢字を使っていても
「ほうがんびいき」と読むそうで 
ゆるぎない義経愛を感じますな。(笑)

先に言った実像が多く伝わっていたら
生まれていなかった言葉かも。

妄想であれこれ弄繰り回すと 
せっかくの悲しく美しいヒーローの
イメージがどんどん崩れてきて悲しいので 
このあたりでやめておこうっと。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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