今日 9月11日は 田沼意次が生まれた日

田沼意次 生誕 障子窓

 
田沼意次 生誕
 
今日は あの老中田沼意次が
生まれた日だそうです。

1719年のことで 当時としては
お父上がお年を召してから
授かった息子だったそうで 

喜んだお父上は 七面大明神に
感謝のしるしとして
家紋を七曜星に変えたそうです。

田沼家はそのお父上の代では 
紀州藩の足軽だったそうですが

天下の暴れん坊将軍
(当時は部屋住みだったけど)と
一緒に江戸に出て 側近に召し抱えられ 
600石の小身旗本に昇進しました。

暴れん坊将軍・吉宗さんが
将軍職に就任するに当たり 

同郷の家臣たちをたくさん連れてきて 
幕臣として登用したのですな。
 

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切れ者は 出世も早い

 
そして意次さんは 次期将軍の
お小姓に抜擢されて16歳の時に
この家督を相続しています。

その後9代将軍にお仕えしますが 
その間もがんがん出世します。

出世の発端は 美濃国で百姓一揆が
起こった時に裁判に当たらせるため 
「御側御用取次」から1万石の
大名に取り立てられたことでしょうか。

いよいよ城持ちになるですよ。

そして10代将軍家治さんも 
意次さんのことを大変重用しましたので

出世街道は急こう配の
登り調子でまだまだ続きます。

御側御用人から側用人になり 
さらに侍従に上がって老中格になりました。

最終的には老中も務めましたので 
この間10回ほど加増されて

600石の旗本から5万7千石の
大大名になっちゃいました。

側用人から老中になった 
初めての人だったそうです。

ひとえに頭の切れる人だったと
いうことができようかと思います。

老中の時には幕府の改革に取り組みました。

若い頃、暴れん坊将軍が
米相場の乱高下に悩んだり

緊縮財政で立て直そうと
年貢の取り立てを厳しくした結果 

一揆などが増えてしまったことを
知っていましたので 
意次さんは別の方法を考えました。

江戸の商人たちに儲けを増やさせ 彼らに
増税をして幕府の財政を支えるというもの。

でもこれは結果的に商人たちと癒着を生んだり 
わいろが横行するとか 私たちが知っている
田沼さん時代の負のイメージを生んでしまいます。

だけどね これって悪いのは
意次さんじゃあないですよね?

袖の下とか不正な方法を使って 
上手いこと取り入ろうとしたりする 

そういう人や発想の方が 
けしからんと思うのですが…。

幕府の財政としては
ちゃんと持ち直しているので 
この方法は成功だったのですが

市井の人々の目にはそうは見えなくて 
批判が高まる一方でした。

外国との交易も黒字化をはかったり 
蘭学を保護したり 身分の別なく
人材の登用をしたり とても
進歩的なことをやったんですね。

ですがやったことが先進的過ぎて 
時代の方がついて来れなかった感じがします。

例えば身分の別なく人材登用をしたそうですが 
こういうことって 傍目から見ると

山吹色の菓子折りが 山のように
積まれたに違いない…と
思われちゃうんですよね。

登用の目的はもちろん その過程が
誰にも見えませんから仕方ないですけど

日本の身分制度は比較的
ゆるやかなものだったからこそ 

こういうことが可能だったとも
言えるのではないでしょうねえ。

お父上が暴れん坊将軍に引き立て
てもらうなどしましたし 

身分とは あくまでも後付けであり 
人の才覚とは関係ないと
理解していたのかもしれません。

驚いたことに鎖国政策だったのに 
ロシアとも交易を考えていたようです。

実は平賀源内さんとも
お知り合いだったようですよ。

でもこちらは源内さんがちょいと
ヤバイ揉め事を起こしてしまったので

表向きは 知らない人という
ことになっていたみたいですけれど。

もしも源内さんがそういうことを
やらかさなかったら 蝦夷地を探検させるなど
していたかも…という話があるそうです。
 
 

大出世は 周囲の妬みも招く

 
破竹の勢いが陰ったのは 
1784年に江戸城中(!)で

息子の若年寄 田沼意知さんが 
暗殺(!)されてしまったあたりからでした。

その2年後10代将軍家治さんが
亡くなり 意次さんも失脚します。

当然反田沼派が仕返しを始めまして 
お家のお取り潰しこそ免れましたが

孫が陸奥1万石の小大名として 
かろうじて家督を継ぐことができたそうです。

何だか一気に駆け上がって 一気に
落とされたような感じがしないでもない…

急激で極端な出世をしたので 
不正な手段で手に入れたみたいな印象ですが
そういうわけではないのですね。
(全くなかったとは言いませんけども…。)

世間の批判にさらされたり 
反田沼派などの仕返しがあったことも事実で 

手に入れた俸禄を ほとんど
全部取り上げられてしまいました。

ほぼねたみだと思いますけれども 
ある意味では自分の考え出した政策が
上手く行ったので 結果的に

意次さんの出世や俸禄という形で
返ってきていたのではないですかねえ。

一見 金権体質のように見える
田沼さん時代ですけれど 

精査してみると 良い結果を
出している事柄も多々あって 

やはり彼は優れた
政治家だったんだと思います。

当然ですが人間のやることだから 
全方位にいいことがあるわけないですよね。

特に政治家の場合 とった政策が
どこのどんな方面にどう影響し 

どんな結果をもたらしたのかと
局面に合わせて 考える必要があります。

だ・か・ら 面白くてやめられないのかな。(笑)
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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