今日 9月14日は 崇徳院が崩御された日

崇徳院 崩御 障子窓

 
崇徳院 崩御
 
平安の時代が終わりを告げようとする頃
「院政」とかいうめちゃんこ
ややこしい形で政治をやってくれて 
ありがとうございます。

おかげで何度も読み直さないと 
誰が誰で何がどうなったのか

わけわかんない歴史にしてくれて 
ありがとうございます。(T^T)

いつまでも表舞台に居座っていたかった 
白河じじいのせいで

幼児のうちに天皇に即位させられて
名前ばかりの天皇に
されてしまった崇徳帝は 
穏やかなお人柄だったと思うのです。

和歌を嗜み 歌会なども催されましたし 
何よりも若すぎて…というか
幼くていらっしゃいましたので 

実権はじいさまやお父上が握っていて
本当にお名前ばかりの帝でいらしゃいました。
 

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百人一首に選ばれるほどの歌人でもある

 
どろどろの権力闘争とは 
別の世界にお住まいだったことは 
むしろよかったのかもかもしれませんね。

優しくて教養も深かったと思われるので 
実際にこの方の治世が実現していたら 
どんな世の中になっていたでしょう…。

残念ながら その片鱗も見えないほど 
排除された感じが否めません。

背景としては 平氏や源氏という
実力行使も辞さない者たちが 
ガシガシと実権を握り始めていましたので 

たおやかそうなお人柄の崇徳帝は 
あっという間にどちらかの
勢力の手に落ちてしまって
いたかもしれませんけれど。 

在位中であるにもかかわらず
何もできなかったのは 父君である
鳥羽院が「院政」を敷いていたからですが 
自分の息子を蔑ろにするなんて…。

もっとも鳥羽院の中宮璋子さんは 
白河じじいの回し者だったという
うわさもなくはないので 仮に

崇徳帝の出生に何か秘密があったとしても
不思議ではないし 実の息子のはずが 
蔑ろにしたということは…。

もしかすると ひょっとするけども…
まあどの道 天皇家の血筋だけどさ。

愛憎渦巻いてどんどろりんだけども 
なまじ上流に生まれたばかりに

後ろ盾がいなくなると 近くの
大渦に翻弄されることになるのですね。

崇徳帝はお妃の聖子さんと 
ずっと仲良く過ごされていますが

子宝に恵まれず これも残念の
上乗せになってしまうのですね。

もしお子がいらっしゃれば 
また少し違った経緯を辿られたかも…。

ただ中宮聖子さんとの間に
お子がなかっただけで 

別の人との間には 二人ほど
皇子がいらっしゃるのですけれど…。

結局 残念な治世になってしまい 
譲位されることになり 
崇徳院となられました。

彼の後 帝位についたのが 
事実上の弟であるため「院政」しけず 

この譲位は崇徳院に 遺恨を
残すことになったようです。

この時に立った幼い帝はお身体が
弱かったこともあって短いお命でした。

普通ならここでまた崇徳院が 
返り咲いてもよさそうなものですが

いろいろあって 今度は同じ母を持つ
弟宮が後白河帝として即位します。

後白河帝としての即位は 
この帝の皇子が成人するまでの中継ぎという
位置づけだったようですが 

この措置は崇徳院の復権の望みが完璧に
絶たれることにもなり 明らかに
除外しようとする動きだったんですね。
 
 

負けると本当にひどい目に遭う

 
この後 鳥羽上皇が亡くなって 
崇徳院と後白河帝の兄弟げんかは
修復不可能になってしまい 
ついに「保元の乱」という形で爆発します。

「院政」という政治形態のある意味での弊害 
トップが同時に何人もいる状態に

武士という武力集団がそれぞれに
味方して「力」で決めるような感じ。

いにしえの豪族たちの権力闘争が 
そのまま蘇ってきたようなものです。

もともと不利な状況だった崇徳院は投降し 
数日後には粗末な車に乗せられ 
讃岐国へ流刑になってしまいました。

そして8年後の1164年 9月14日に
46歳で崩御されています。

何も悪いことなんてしてないのになあ…。

どうして流刑にならなくちゃ
いけなかったんだろう…。

確かに帝位にある弟君 後白河さんとは
ガチンコ勝負になっちゃったけど

まあ初めからかなり劣勢だったし 
たぶん武器を持って戦うとかいうことや

あれこれ策略などを巡らして 
切り抜けるようなタイプでは
なかったのでしょう。

そしてやっぱり「負けちゃった」
ということが大きいのだろうな…と。

権力闘争に負けるということは 
失脚=罪人=死も 珍しくなかったですので。

だ・か・ら 後々都で何かある度に
崇徳院の祟りということにされちゃったのね。

道真公の時もそうだけどさ 
負い目があるからそう感じるんだぜ?

何も悪いことしてない人を陥れたり 
辛い思いをさせたって意識があるんで。

崇徳院も心優しくて穏やかな
お人柄と思われるのに そんなお人を

怒りや憎しみで憤死させるようなことを
やらかしたのは 周りの人たちだからね。

もっとも残っている史料には 
お怒りのあまりに亡くなったと
伝わる一般的なお話とは
違う記述もあるみたいで 
本当はどうだったのかわかりません。

古今東西 何時の時代も
「歴史は勝者が書くもの」ですので 

一方的な言われ方…祟りとか怨霊とか 
極悪非道で恐ろしい人だったとかいう
表現をされている場合や

そういう話が一般的な場合は 
ちょっとだけ注意が必要なのです。

ともあれ崇徳院の場合は もう少し
違う時代に生まれていたならば

また違う人生を歩まれたのではと 
思われてなりません。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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