今日は徳川宗春公が亡くなった日

徳川宗春 忌 障子窓

 
徳川宗春 忌
 
1764年の今日11月 1日は 
第七代尾張徳川家藩主 
徳川宗春公が亡くなった日です。

この方は藩主になったころ 
規制緩和などを行って

おひざ元の名古屋に 空前の
大好景気をもたらしたお殿様です。

ちょうど同じころ将軍だった
吉宗さんの 引き締め策とは
対照的で 巷では敵対したとか

逆らったような言い回しを
されているようですが 

そういうことを裏付ける史料は
見つかっていないそうで 
本当の所はどうなのかわかりません。

ただ後世の人間からみれば 
同じ時期に全く反対のことをやっているので

対比させれば二つの歴史的事実を 
一度に覚えられるとかそんな感じで 
言い出されたことかもしれませんよ。ぷぷぷ…。
 

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何だかんだ言っても 御三家筆頭の尾張家ですから

 
さすがに御三家の筆頭ですから 
所帯が大きく家族も多かったんですね、

宗春さんは ぬあんと二十男坊
(十九とも)ですって!\(◎o◎)/!

女の子も入れたらどんだけいたんだ 
兄弟が!という感じですが

それは今の感覚で 昔はそんなの
当たり前だったのかもね。

ただ宗春さんが藩主になるまでには 
かなり短い時間でいろんな人が
藩主になってはすぐ亡くなったりしていて 
何だかごたごたしてます。

そうでしょうねえ 普通三男坊とか四男 
かなりいろいろあっても五男 
六男あたりまでで 
跡取りとか収まるものですから。

それなのに二十番目まで
順番が回って来るとか 

お兄さんたちってば何やってんのよ 
ひょっとしてつぶし合ったの?
とか言いたくなります。

別に生まれた順番を守らなくては
いけないという 決まりはないですけども

他にごろごろいたのに すっ飛ばして
回って来たのかもしれませんから
やはり宗春さんは
何か持っていたのでしょうね。

宗春さんが22歳の時
第六代尾張藩主を継いだお兄さんが
名古屋城内で蟄居謹慎になります。 

何をやらかしたんでしょうねえ。

これからおよそ10年ほど
宗春さんは暴れん坊将軍と
仲良く過ごします。

で、梁川藩というところの
大久保松平家に
跡取りがいなくなってしまい

吉宗さんがぜひにと 宗春さんに
再興をまかせたりするんですね。

1730年にお兄さんが亡くなり 
その遺言で宗春さんが尾張藩主を継ぎます。

その時に吉宗さんから一字もらって 
宗春を名乗るようになりました。

宗春さんは就任直後に それまでの
厳しい規制を緩和するお達しを出します。

「温知政要」という本にまとめられて
いるそうですけれども
幕府のやり方とは
真っ向から対立しますが

お上に逆らえと
言ってるわけじゃないのですね。 

質素倹約の規制は
庶民の楽しみまでも奪うもので
欧州の暗黒時代みたいなものでした。

地味で黒いような着物を着て 
お祭りや歌舞音曲もなく

夜間は外出禁止だとか
修行僧じゃあないんだから ねえ。 

みんな普段の仕事とかを
黙々とやってるわけで 

季節のお祭りとかそういうのは
庶民の大切な息抜きであり 
楽しみや張り合いでもあったのです。

それを地味に暮らすことと
経済を回すことは別なんですけどねえ…。

だからご領内では普通に華やかな着物を着 
夜でも女性や子供が外を歩けるように

街燈(提灯ですけどね)を整備したり 
お祭りやお芝居を再開したのだそうです。

経済を回すことで結果的に
税収を増やすという考え方でした。
 
 

江戸時代は各藩がいろいろで 面白い

 
もちろんそういうのはすぐに
お上の耳に入りますし もしかすると
羨ましかったのかもしれないけれど 

いろいろあって結局宗春さんは
蟄居謹慎させられてしまいます。

尾張徳川家ってえのは 
蟄居謹慎が家風なのでしょうか?

まあ御三家の筆頭を
取り潰すわけにもいかないので 
そのまま通常運転ですけどね。

一方 蟄居謹慎というのは 
本当にどこへも出られないんですと。

でもですね 宗春さんたら側室を
二人もお傍に置いて 絵を描いたり
念仏を唱えてみたり 陶芸を楽しんだりと
悠々自適な暮らしぶりだったとか。

しかも吉宗さんからは
何か足りないものはない?とか

外へ出られなくて気分が塞いでない?とか 
けっこう気遣ってもらっていたらしいし。
なんなの…。

腐っても鯛 じゃないけど 
やっぱり御三家筆頭だもんね 気も使うわさ。

だから決してぐぬぬ…な思いは
していないのですよ 

その後亡くなるまで25年もの間 
蟄居謹慎だったとしても…。(◎艸◎)

それで宗春さんの実行した
回す経済ですけれど 

蟄居謹慎を言い渡され
お殿様でなくなった時に 
無かったことにされちゃいました。

また吉宗さんがやった質素倹約の方は 
将軍さまの交代と一緒に 老中とか
執行部隊も変わったので 少しずつ
緩やかになったようです。

やっぱりね あまりぎりぎりと
締め付けるのはよくないですよ。

何事も塩梅が大切で 緩め過ぎず
締め付け過ぎずという どちらも適当な
アソビが必要なのではないかなあ…と。

ともあれ宗春さんは 自分も悠々
自適な蟄居謹慎生活を送りながら
おひざ元も経済がよく回っていたのでしょう。 

それは取りも直さず そこに暮らす
人々それぞれが 豊かに暮らしていた
ということに他なりません。

こういう基盤がしっかり受け継がれたこと 
それが今日でも名古屋が日本屈指の
大都会として発展する大元に
なったんだろうなあと
思ったりするのです。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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