今日から「院政」始めるからね~! by後白河法皇

 
後白河院政
 
1181年の今日 2月 2日は
後白河法皇が「院政」を
始めた日とされています。

え~? ソレ、何度目の
「院政」開始なの~?!と 
ツッコミが入りそうなくらい

後白河法皇は「院政」を始めたり 
やめさせられたり
また再開したりを繰り返され

実際の治世には あまり目立ったことは
されなかったお方です。

私がネタに選んだ年代は 
かなり後半生に入ってからの時期にあたり 

本当にご自身の思う通りの政が
できるようになったという意味での
「院政」開始です。
 

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よく見てみるととても面白い方かも…

 
当時は天皇 上皇 法皇 ○○院とか
一人の人をいろんな呼び方してて
本当に混乱の極致なのですが 
落ち着いてよく考えれば 何とかなるかな。

後白河さんの父君は鳥羽上皇、
母君は中宮の藤原璋子さんで 
お二人の四番目の皇子に当たります。

上に3人もお兄さんがいたわけで 
本当なら天皇にはなれなかったかも
しれない微妙な立場にいた
皇子さんでいらっしゃいました。

そのせいか若い頃から
「今様」などがお好きで 
まあ…もっとはっきり言うと 
遊んで暮らしていましたね。

そのお相手も藤原氏の名門貴族から 
どこの馬の骨ともわからない
下賤の者まで楽しければいい 
興が乗ればそれでいい みたいな

その場のノリだったようで貴賤の別などは 
ほとんど眼中になかったように思われます。

ご自分の立場からすれば 
あまりすべきではない行動なので 
鳥羽上皇も困ったもんだとお感じに
なっていたのではないでしょうか。

ああ…昔のやんごとなき身分の方は
そんなこと思われないかな…。

文系の青春を謳歌されていましたけれど 
父君が兄君(崇徳帝)へ
強引に譲位を迫り 小さな子供の
天皇を誕生させたのです。 

ところがその小さな大君が
夭折してしまったり 
やっぱり後ろ盾の人たちとの
確執があったりして すったもんだの末

かなり急いで突然に 後白河天皇として 
即位することになってしまったんですね。

ご自身の第一皇子が
もう少し大きくなるまでの間 
よろしくねという中継ぎで
29歳の時に即位されましたし 
実際の在位は3年だけでした。 

もしかするとご本人からしたら
即興の「今様」をうたい 
やりとりを楽しむのと同じくらい 

スリルと興奮が味わえちゃったのか 
驚くほど長い間 政治の世界に 
お留まりなさいました。

タイトルの「院政」だって 
お名前の後白河法皇だって 
天皇としての御世ではなく

天皇を譲位されてからの~
あれこれですから。

息子の二条帝には摂関家が後ろについて 
後白河法皇の院政派と
政治的な対立が発生してしまいます。

皇族方だけなら双方の
綱引きみたいなものですが 

この頃にはそこに武家が絡んで
来たもんで いつになく「乱」と
呼ばれる内戦が多く
発生したような気がします。

そして歴代の天皇とは違う体験を 
いろいろとされていますね。

まず武士の台頭をリアルタイムで
見聞きして 彼らとどう向き合うか 

かなりちゃっちゃと判断しなければ
いけない場面などあったと思います。

見方を変えると 余計な手出し
口出しがあったり なかったり… 

わ・り・と・そこらを引っ掻き回した
感じもするような しないような…。(笑)

やはり政治の中枢が二つある
ような状態では 世の中も
自然とその影響を受けるもの
なんでしょうかねえ。

平清盛さんとも仲良くしたり 
反目したり また政治的に仲良くしたり…

驚くばかりの露骨な
かけ引きを披露してくれました。
 

物怖じしないご性分だからできたこと

 
そして「保元の乱」から はっきりしっかり
敵対関係だった平氏を 
絶対許さないもんねとばかりに 
東国へ流されながらも とうとう
決着をつけた源氏の兄弟とか…。 

そういえば 台頭してきたのは
武士ばかりではありませんでしたね。

仏教徒さんたちも 結構あちこちで
やらかしたりしてて その鎮圧にも
武士の力が必要になったりとかして 

世の中が全体的に
過激になっていったというか…。 

大きな宮殿の奥の方で 公卿さんたちが
扇子で口元を隠しながら あれこれと
決めていたころとは違い 
時代が軋みながら加速した感じです。 

後白河法皇も 本来なら
引退しているはずなのに 

いろいろ口を出すなどしたせいで
幽閉されたりとか 隠れていた所から
間一髪 逃げ出したりとか 

すんごいアクティブ 
波乱万丈なんですよね。

ある意味では黎明の混乱期に
戻っちゃったというか 

力が 武力がモノを言う
そんな荒っぽい時代に
入って行ったんだと思うのです。

貴賤の別なく いろいろな人間と
接することができたのは 
物事にあまり物怖じしない
ご気性でいらしたから…かもしれませんね。

後白河さんにとって重要だったのは
やっぱり一番身近で 武士で 
日宋交易でお金持ちだった平氏との
関係だったのではないかなと。 

両者は互いに ある意味足かせであり 
油断のできない緊張関係を強いられていたと。

実は1181年の2月初めに 
平清盛さんが亡くなっているのです。

その前年には高倉上皇も崩御されていて 
幼い安徳天皇しかいらっしゃらず 
政治的な空白が…。

誰も政ができる人がいなかったため 
またもや後白河さんが脚光を浴びたと。

本当に何度も不死鳥の如く
復活したお方で 頼朝さんには
「日本一の大天狗」とか言われちゃうし 
すでに妖怪の類だったのね。ぷぷぷ…

法皇とか○○院というのはすでに出家されて
世捨て人のはずなんですが…

後白河法皇の場合は 
全然世捨て人じゃないですよね。

法名を名乗られてからの方が 
思いっきり俗世を
謳歌されておいででしたねえ。

遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけむ………。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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