「十七条憲法」が制定される

 
聖徳太子
 
大変に古い時代のことですので 
無理もないと思いますけれど

いくつかの記録に 少しずつ微妙に
ずれた数字で 時期が書かれており 

実のところ、どれが正しいのか
研究者の間でも 意見が分かれて
いるのだそうです。

一応 推古天皇12年の今日 4月 3日に
この「十七条憲法」が

成立したとあるそうなので 
その説を取りたいと思います。

制定したのは言わずと知れた
推古天皇の摂政である厩戸皇子こと
聖徳太子ですね。 

「記紀」のうち「日本書紀」には
全文が載っているそうです。

そしてここには聖徳太子を
「皇太子」と記されています。
 

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大国から学び 賢者がまとめた憲法

 
私が原文を読み下せるわけではないので 
聞いた形に記します。

「和を以って貴しと成す」
「篤く三宝を敬え」など
歴史の授業で覚えたことと思います。

解説によると憲法とはいっても 
私たちの知る今の形の憲法とは違い

どちらかと言えば 当時の官僚や貴族などに 
守るべき心得みたいな感じで

ああしなさい、こうしなさいと
言っている文のようです。

当時世界最先端の文明国だった 
隋の都の様子や律令制度、文物、 

仏教などを積極的に学ぼうと
国を挙げて努力しました。

莫大な金品と共に優秀な留学生を
送り出すこともしました。

船を設え わざわざ海路を行ったのは 
朝鮮半島を陸路で行くより

危険が小さかったからだ
という話もあります。

昔の人々が結構大胆に海を行き来して 
交易していたらしいことは
だいぶ知られるようになりました。

また聖徳太子を含め この頃
日本の政治の中心にいたのは 

渡来系を祖とする人々であり 
大陸の新しい宗教である
仏教を広めようとした感はあります。

十七条憲法の第一条 

一曰、以和爲貴、無忤爲宗。
(一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、
忤(さか)ふること無きを宗とせよ。)
            ―ウィキペディアより―

とあるように 国を治めていくには 
何よりも和が大切なんだから 

みんなで協力してやっていこうねと
いうような発想は 聖徳太子の時代も 

権力闘争が 本気の戦闘に
変わることがしばしばあって 

血で血を洗う争いからは
何も生まれないと 身を以って
知っていたからでしょうね。

文体こそ漢文調で はっきりしっかり
がっつり命令口調ですけれど

上に立つ者こそ襟を正しさないと
だめだからね みたいなことも言ってるし

およそ大陸国家の真似だけとは思えない 
日本流の考え方がしっかり
生きている条文になっていると思います。

孔子の「論語」にも似た一節があるという
指摘もあるのですが

当然ながら聖徳太子なら
教養として学んでいたと思います。

孔子はめまぐるしく君主を変えたり 
亡命したりと どうやら理想の君主を求めて
生涯をすごしたように思われます。

「儒学」も体系化している最中だったせいか 
彼の思想が当時の王たちに
実現・実行されることはありませんでした。

ただたくさんの弟子を育てて
「儒学」として体系化に成功したので 

時間と共に中国の思想に深く
根付いていったということは
紛れもない事実です。

そもそも思想って おかれた現実を
批判なり否定するところから
入るもんですよね?

「論語」って「こうだったらいいのにな」
というのがとても多い気がする。

孔子が生きた時代背景と
聖徳太子の環境では かなり差が
あると思うのです。

よって同じ文字を使っていても 
その文言が意味するところ 

言わんとすることは ずいぶん
違うのではないかと思うのですが…。
どんなもんでしょう。
 
 

学ぶとは ただ取り込むことではない

 
「儒学」というのは 部分的に
日本人には合わない発想もあるようで

それらは日本では広まっていない 
つまり学ぶべき事柄とそうでないものを
取捨選択しているということなのです。

誰がそういうことをしたのか… 

それは聖徳太子のような賢者や
高僧らが書物を読み その中から人々に 

教えるべきこととそうでないことを
選んでいったのではないかなと。 

大陸国家には ただの「支配者」しか
登場しませんでしたから

同じ仏教を信奉していたのに…というか
宗教を利用していただけかもしれないけど 

こういう発想は見当たりませんから 
やっぱりお国柄ですかねえ。

国家としてはまだ若かったころですが 
国を治める基本方針はしっかりと

定まっていたとみることが
できようかと思います。

遣隋使に持たせた
「日出処の天子」のお手紙は 

はっきりと日本(うち)と
お宅とは対等なので 
そこんとこよろしく!と
言い切ったわけです。 

その意味を理解したので
煬帝が大激怒だったのですね。

当時の大帝国の皇帝に一発かますあたり
なかなか肝が据わっています。

ちなみに聖徳太子は複数の人間の功績を
寄せ集めた架空の人物だという説を

見た気がするのですが 
それだと摂政の制度も
疑いたくなっちゃいますね。

推古天皇の摂政は誰だったのか? 
本当にいたのか? 

それに当時は流血の権力闘争を
していた時代なのに 
なぜ自分の名前を残さなかったのか? 

その理由は何か? 

それは誰の都合だったのか…? 
おお素人っぽい疑問がてんこ盛り!

中でも一番疑問になるのは 
聖徳太子の存在が虚像だとすれば 

なぜそんな虚像を登場させる
必要があったのか? 

誰が得をするのか?ですよね。

大胆な設定は妄想を刺激されて
面白いですけど その域を出ないです。

素人がどんなに妄想を爆発させようと 
所詮妄想に過ぎませんよねえ 
そのレベルとほとんど大差のないお話です。

きっとあれじゃないですか、
聖徳太子は今でいうIQが
高かったんですよ。

頭の回転がものすごく速かったから 
一度に十人の訴えを聞けたみたいな

エピソードができたんじゃないですかね 
うん、きっとそうだわ。
 
お読みいただきまして ありがとうございます。
 

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