今日は高橋是清翁の誕生日

高橋是清 生誕 障子窓

 
高橋是清 生誕
 
高橋是清翁は1854年の今日
 9月19日に幕府のお抱え絵師だった
川村庄右衛門を父として生まれました。

が 実は行儀見習いに来ていた女の子に 
手を付けたという曰くが
ついているのですが これは
生まれた子には関係ないことですね。

庄右衛門の奥さんは若い母を心配して 
面倒を見てやっていたそうです。

昔の日本女性は夫の不始末も
自分の守備範囲として しっかりと
始末をつけ 収めていたのですねえ…。 

そして間もなく生れた赤子は 
仙台藩の足軽高橋覚治の
養子になりました。

長じて是清さんは
ヘボン式ローマ字綴りで有名な 
ヘボンさんの私塾で学び

やがて1867年13の時に 
藩の命令で米国留学をします。
 

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留学先でどえらい目に遭うも 怒涛の人生

 
ところがこの時 
面倒をみるはずだった米国人に 

旅費・学費を盗まれるは
滞在先になっていた こいつの家族にも
騙されて 奴隷として売られるなど

散々な目に遭いながらも 
英語はしっかり身に付きました。

こういうことがあったから 英語で
ケンカできるようになったと思われます。

外国人に対して一歩も引かない交渉は 
ケンカできるくらいでないと…

口で組み伏せるぐらいの
つもりじゃないとできませんからねえ。

それにしても どえらい目にあったもんですし 
よく帰ってきましたね。

恐らく「こんちきしょうめ!」という
怒りにも似た感情が 驚くべき速度でもって
英語での読み書きと会話を
モノにしたのではないでしょうか。

まあヘボンさんとこで基礎が
できていたと思われますので 

後はネイティブの
発音にさえ耳が慣れれば 
若く柔らかい頭は語彙など
すぐに増やせますから。

帰国後 サンフランシスコで
知り合った森有礼さんの勧めで

文部省に入って 英語を教えたり 
学校の設立に関わったり 

官僚としても農林省 
特許庁の初代長官とか 
日銀総裁とか すごいんです。

特に特許庁では 日本の特許の制度を
整えた人だったんですね。

恐らく英語が堪能だったので 
欧米人が考え出した「特許」という考え方を
正しく理解できたのだと想像します。

明治の初めのころの官庁って 
わりと「コネ」で入ったりする人が
多かったんですよね 何と言っても 
出来たばかりでしたから…。ぷぷぷ…。

まあねえ是清翁の場合 
最終的には内閣総理大臣まで 
上り詰めた人ですので この辺りは
ただの通過点に過ぎないのかもしれませんが…。

でも高橋是清さんと言えば総理大臣よりか 
大蔵大臣のイメージが強いですね。

経済に通じていたというか 
しつこいようですが英語でケンカが
できるくらいだったと思うので 
外国人との交渉が上手かったのではと。

一番有名な功績は日露戦争のために
お金が必要で それを外国から調達したこと。

英国ではぶすぶす文句を言われて
苛められましたが 結局 ユダヤの人たちから
お金を融通してもらうことができたのでした。

で、この借金ですけども 何と
昭和61年に完済しているんですよ!\(◎o◎)/

戦争をするために外国から
お金を借りるなんて 
何かおかしな感じがしますけれど 

戦争ってそれくらい
お金のかかることなんですね。
 
 

明治の偉大な政治家の一人

 
是清さんが辣腕をふるっていた時代は 
明治 大正 昭和の初めと
本当に激動の時代でした。

ある時突如 それまでの
太平の眠りを覚まされ 

文明開化だ~とばかりに
一気に西洋化が図られ 

追いつけ追い越せで 
がむしゃらに突っ走ってきた
そんな時代だったといって
いいかもしれません。

国家の財政も大変だったと思いますけど 
一人で6回も大蔵大臣をやった人なんて 
他にいないんでないの?

今となってはこの高橋是清翁の
逸話みたいになったお話をもう一つ。

1927年(昭和2年)に
昭和金融恐慌という
大きな社会不安がありました。

もともと金融システムが盤石ではなく 
再三ちゃんとしなくちゃだめだよねと
言われながら どの政権も
きちんとした手を打って来なかったこと 

第一次世界大戦の後に経済が不況に陥り 
不良債権を抱えることになったこと 
そしてとどめの一撃が関東大震災でした。

積もり積もった負の因子が 
一気に噴出したように
取り付け騒ぎが起きてしまいました。

是清翁は大蔵大臣だったのですが 
片面だけ印刷してある200円札を
大量に刷って 銀行の店先などに
どーーんと積み上げて見せて 

人々の不安を払しょくしたので
大混乱にならずに金融不安を
収めることができたのだそうです。

片面だけのお札って… 
それ偽札にもならない
気がするですけど…。ぷぷぷ…。

この世の中のシステムって 
人の信用で成り立っているという好例かと。

高齢などを理由に 政財界を
引退するのですが 頼まれて
また返り咲くなどを
繰り返していましたが

(それだけ優秀な人材だったのだと
思いますけれど…。)

最期は軍事予算の縮小をしたことが 
軍部の若い将校たちに恨まれて
「2・26事件」の被害者になってしまいました。

事件の首謀者たちは経済のことなんて
全然分かっていなかったと思います。

よく分からない思想に
懸想してたとも言われますし…。

時代を超えて 多大な功績を残してきた
人だっただけに もう少し穏やかな
余生を送らせてあげたかった気もしますが。

ああ…現役の大臣でしたね…
そのあたりも明治の人の気骨なのかな。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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