今日は「天下人」あの豊臣秀吉公のお誕生日

 
秀吉誕生
 
今日 3月17日はあの天下人
豊臣秀吉公の生まれた日です。

実は長く1536年生まれが
定説だったようですけれども

1537年の方が 有力に
なってきたみたいです。

学説によっては 正確な生年月日は
もちろん 両親の名前なども

不詳であるとしているものも
あるそうですけどね。

昔のことですしねえ 由緒ある
家柄の嫡男とかでなければ

正確な記録なんて残っていないのが
普通かもしれません。

お百姓さんだった あるいは
もっと身分の低い人だったとも
言われています。

そもそも身分なんてえのは
人間が勝手に作り出したモノで

ほとんど価値なんぞないと
私は思っているです。
 

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侍になりたかったのは…

 
秀吉さんは日本一の大出世をした人ですが 

それは元々の出自が高くなかったことを
示してもいるのですね。

戦国のお話とか三度の食事よりも
好きな方が多いですし

私みたいなもんが 何をか
いわんやですので 自分なりに
思っていることを書いてみたいと思います。

秀吉さんの日本一の大出世ですけれども 
まるで発進したロケットが

宇宙を目指すように 上へ上へと
駆け上がっていきました。

妄想を拡大させてみると 秀吉さん個人の
望みというか 出世願望としては

「侍になること」が
まず第一段階だったのかなと。

お百姓さんだとも もっと下層の
出自だともいわれていますが

とにかくどこかの武家に仕官したい 
取りたててもらってお勤めしたい
そこから出発したのだと思います。

乱世でしたので 自分の立ち居振る舞い
次第で 身分を超えることができると

恐らく身近で起こっていた事例などをみて 
理解していたのでしょうね。

いわゆる下働きに使ってもらうなどしながら 
徐々に頭角を現していった
典型的な例ですよね。

頭の回転が速くて 見よう見まねからでも
どんどん知識や技術を
身につけていったのでしょう。

それから 後に「人たらし」と
言われたように 人の気持ちを

つかむのが上手だった つまりどうしたら
人を動かすことができるか たぶん天性の
感覚が備わっていたのではないかなと。

持って生まれたものと 侍になりたいという
願望が上手くマッチしたというか

もちろん秀吉さん本人の
努力もあったと思いますが 
どんどん実現していきます。

信長さんという稀代の
「傾奇者(かぶきもの)」に

出会ったことも秀吉さんが持っていた
「天下」を手繰り寄せる運の
ひとつだったのかもしれません。

この二人はどちらが欠けても
「天下取り」は
成し得なかったと思っています。

随分と違う個性ですけれども 
それぞれが互いを補完し合うような形で
必要不可欠な存在だったのかなと。

もちろん当人たちは そんなことは全く
思っていなかったでしょうけれど。

信長さんと出会って以降
「侍になる」という目的を 
すぐに果たしちゃった秀吉さんですが

この「傾奇者」の信長さんをみていて
次の願望が芽生えちゃったのかもしれません。

それは「侍になれたから 今度は
そのステージで出世する」ということ。

具体的には「お殿様になる」とか
「一国一城の主になる」とかですね。

一方 もともとお殿様だった信長さんが
目指していたのは「殿様の中の殿様」=
「日の本国の覇王」になることでした。 

そういう常に先を行くでっかい野望を
いつも見せつけられていたので もの凄い
刺激になったんじゃあないでしょうか。

歴史的な事実として「天下取り」目前で
倒れた信長さんの野望を引き継ぐ形で

秀吉さんが具体化していくことに
なるのですけれど…。
 
 

武士ではなかったから「幕府」より「朝廷」?

 
「天下人」としての立場が
自他ともに認められるようになったころ

朝廷からは「将軍にならない?」
という話があったそうですね。

ところが秀吉さんはお断りしているんです。

この点は 私の中で どうしてだろう?と
少し不思議に思っていました。

「侍のステージで出世する」であるとしたら
「将軍」こそが「侍(武家)のリーダー」で
最高の出世なんじゃなかろうか…と。

どうして「将軍」じゃなくて
「関白」だったのでしょうねえ…?

それは秀吉さんが庶民の出自で 
武家の生まれではなかったことが
関係しているかも…?

そんな妄想がむくむくと頭をもたげました。

秀吉さんは武勇のある武士ではないですね。

彼が得意だったのは 土木作業
(超短期間でお城を造っちゃうとか)

水責めとか兵糧攻めとか調略 あるいは
和議交渉など武力を使わない方法でした。

侍になりたくてなったのに
武力は嫌いだったみたいですね。

もしかすると侍が政治を行うことに 
あまり期待していなかったのかも…。

信長さん亡き後 跡目を争った経験もあるし 
武家をまとめていく大変さを
思い知らされていたのかもしれません。

むしろ武家の生まれではなかったからこそ
「将軍」になって「幕府」を開くなど

武家主導の政治を
望まなかったのかなと思えたりして。

実は侍よりも上の方にでーーんと
天子さまがおわす…そんな日本の形を

漠然とかもしれないけれど 
理解していたので「関白」というか

その天子さまのお傍近くで
物申せる立場を望んだのかなと。

朝廷の公卿さんたちなら 
贈り物とかしておけば
喜んで味方してくれただろうし。(笑)

あくまでも私の妄想が暴走しているだけで 
本当のところはわかりません。

でもどうしてだろう なぜだろうと
あれこれ思いを巡らせるのが
歴史の楽しみなのだと思っています。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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