今日は作家 三島由紀夫が自決した日 憂国忌

憂国忌 障子窓

 
憂国忌
 
1970年11月25日 自衛隊の
市ヶ谷駐屯地でバルコニーから
檄文(げきぶん)を撒き、

クーデターを促す演説をした後 
割腹自殺をしました。

当時 テレビのニュースや新聞で
見たような気もするのですが 

なにぶん子供だったので 
この人もその行動の意味も 
大人たちや世間に与えた影響の大きさも 
全く理解できませんでしたねえ。

三島由紀夫という人は 詩人であり
戯作家であり小説家でした。

海外でも評価が高くて
よく知られた作家であり 

外国のテレビ番組に初めて
出演した日本人でもあるそうです。

詩を書いていたからでしょうか 
小説作品はたいへん修辞的とされ
美しく詩的な文体を特徴としています。
 

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早熟の天才は 天才だった

 
古典にも精通していたようですし 
たぶん本人が好きだったのでしょう。

構成などにも緻密な計算が
施されているそうで 古典を
「三島作品」に蘇らせるというか 

バージョンアップさせた
作品も多いようです。

子供の頃は病弱で 
日に当たらなかったので
とても色白だったとか。

それでついたあだ名が
「アオジロ」とか「蝋燭」だって。

子供は正直だけど きっとナイーブで
聡明な子だったのではないかと。

学校に上がるまでは 
お祖母さまの手元で育てられ 

遊び相手も女の子で 女の子の
言葉づかいをさせられたとか 
よくわからんのですが 

とにかくこの頃 主に「文系」の
素養を叩き込まれた模様。

日本の昭和の高度成長期に
割腹自殺をした人の
幼少期とは思えない…。

学習院に学びますが もう初等科の
1、2年のころから詩を
書き始めたそうで 大変早熟というか
本物の天才だったのでしょう。

詩作もですが 読書量が膨大ですので
言葉の海を冒険したのですね。

集積された言葉が多いほど
修辞には好都合ですし 

汲めども尽きぬ泉の如く 
いろんな言葉を操ったのでしょうね。

事実大学生くらいになるころまでには 
文壇ではすでに有名でしたから。

ちょうどその大学生のころ
大東亜戦争でしたから 
三島さんも出征します。

当時の若者はみな死を覚悟して
出征して行きました。

たまたま入隊検査当日に気管支炎を
起こしていた三島さんは
家に帰されてしまい 

同窓の仲間が帰ってこない中 
結果的に生き残ります。

「特攻隊に入りたかった」
そんな風にも言っていますし 

自分が生きていることが
「拒まれている」ように
感じたらしいのですね。

そういう感覚も作品に
奥行きを与えている感もあるのですが。

終戦当時こんな言葉も残しています。

「日本的非合理の温存のみが、
百年後世界文化に貢献するであろう」

戦後世の中がガラッと
変わってしまいましたし 

日和見主義に変貌し 天皇制を
批判し始めたメディアに対して 

本気の怒りを現わすなど
根底にあるものは最後まで 
変わっていなかったのかもしれません。
 
 

生れた時代の巡り合わせ

 
1947年に東京大学法学部を卒業して 
当時の大蔵省に入省し

「役所と仕事の綱渡りみたいな生活」を
していたそうです。

すごい職場と二足のわらじを
履いていたんですね 
やっぱり普通じゃない。

1949年にその二足のわらじが
災いして 疲労と睡眠不足から

足を滑らせて線路へ転落する
という事故にあい 

お父さんから勤めをやめ
作家で一本立ちしなさいと
後押しされて 退官し
創作活動に専念します。

そして…押しも押されもしない
売れっ子作家へと 
駆け上がって行くのです。

どうも興味をもったことに 
のめり込んでやるタイプのようですね。

スポーツをやり始めたし 
筋トレなども始めて
体力をつけたようです。

さらにもう少し後になりますが 
剣道や居合も習い始めます。

劇、小説さらには俳優もやってみたり 
写真集のモデルになったり

メディアへの露出も多くなり 
顔も名前も売れていたのでは
ないでしょうか。

―私はいつしか、今の私なら、
絶対にむかしの「われら」の
一員に、欣然として
なり了せることができる、という、

甘いロマンチックな夢想の
とこになりはじめる。

(中略)ああ、危険だ!危険だ!

文士が政治的活動の誘惑に
足をすくわれるのは、
いつもこの瞬間なのだ。

青年の盲目的行動よりも、
文士にとって、もっとも危険なのは
ノスタルジアである。

そして同じ危険と言っても、
青年の犯す危険には
美しさがあるけれど、

中年の文士の犯す危険は、
たいてい薄汚れた
茶番劇に決まっている。

そんなみっともないことには
なりたくないものだ。

しかし、一方では、
危険を回避することは、
それがどんな滑稽な危険であっても、

回避すること自体が
卑怯だという考え方がある。

三島由紀夫「『われら』からの遁走――私の文学」―

             ―ウィキペディアより―

1966年「英霊の聲」を
発表したころあたりから 

上記のような「危険」と「卑怯」の
比重がだんだん「卑怯は許せん」に
傾いてきたのでしょうか。

自分で自分の始末をつけることで
「卑怯」の誹りを
相殺しようとしたのかも…。

もしも自殺など
しないでいてくれたら 

もっとたくさんの三島作品が
残ったでしょうし 
ちょっと残念な気もします。

命日は「憂国忌」として
追悼の集会などが海外でも
行われるそうです。

やっぱり勿体なかったなあと思います。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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