坂上田村麻呂 征夷大将軍に任ぜられる

田村麻呂 征夷大将軍に 障子窓

 
田村麻呂 征夷大将軍に
 
797年の今日11月 5日に
古えの英雄 坂上田村麻呂が
桓武天皇より征夷大将軍に
任ぜられました。

この4年後の801年には 
遠征が上手く行って 
蝦夷を討伐しました~!と
報告しています。

大和朝廷が近畿あたりを中心に 
国々をまとめて中央集権に入ってから

都や中心から距離のある遠い所では 
まだ朝廷に従わない集団が
あちらこちらにありましたからね。

まあ大変に古いお話ですし 
ほとんど神話というか伝説に
なっちゃっていますので…。 

いわゆる尾ひれの部分の方が
多いんでないのと
思うくらいですけれども 

一応 ちゃんと記録が残っているので 
全くの絵空事ではないと思います。
 

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伝説というより 神話

 
坂上田村麻呂さんはもともと武人の家柄で 
自身も腕の立つ人だったと。

どこにいてもわけのわかんないのを
退治しまくっていますけれど

腕も立つし 度胸も据わった
人だったのでしょうね。

容貌の記録も残っています、

身の丈175センチ以上で 
胸板も厚く 力もあって 
堂々とした体躯の人だったようです。

目は鷹のようだし 赤ら顔で
髭は金色の糸を
繋げたようだったとあるので

えーーーもしかして赤毛のあんちゃん? 
図体はでかいし大陸系かしらん?

怒りの目で睨めば猛獣も
びびるほどだったし にっこり笑えば
子供も懐くような そんな
容貌だったそうです。

はい しっかり大陸系でして 
田村麻呂さんのご先祖さんは
東漢氏(やまとのあやうじ)で 

応神天皇の時代に日本にやって来た
漢族系の渡来人だって 
ちゃんと残っていましたよ。

ご先祖さんがやって来たのは 
どのくらいの時代だろうと思って見てみたら 

270年から312年までの
ことらしいので 田村麻呂さんから
ざっくり450年くらい前の
人たちらしいですね。

昔は寿命がかなり短かったから 
7~8代くらいは前ということです。
 
 

武人 坂上田村麻呂

 
さて801年に蝦夷の討伐に成功して 
一旦 京の都に戻りました。

翌年 胆沢城を築くために 
再び陸奥へ赴いた田村麻呂さんは 

そこで蝦夷軍のアテルイや
モレたちの降伏を受け入れました。

圧倒的に不利な状況でも 最後まで
徹底抗戦を続けた蝦夷軍に対して 

武人である田村麻呂さんも 
その心意気というか気概に
感じ入ったんでしょうね。

あるいは 自分たちが投降することで 
一族を守らんとするその心根に
武人としての感じるものが
あったのかもしれません。

いずれにしても命を的に
本気で戦った者同士 
相通じる何かがあったのかなと。

なので助命嘆願をしたのですが 
都の人たちには全く通じませんでした。

結局アテルイらは処刑されてしまいます。

これは田村麻呂さんが
いかに立派な武将でも 
どうすることもできないですよね。

武人としては戦場で雌雄を決する方が 
よかったと思ったかもしれません。

政をする人たちには
まつろわぬ者たちの末路を 
人々に見せしめる必要が
あったでしょうから 

初めから処刑しか考えて
いなかったと思います。

鬼を退治したとか 中央に
従わない地方の勢力などを 
武力鎮圧した人ですが

武勲を建てたので 政治の中枢にも
入ることができまして 

平城天皇の命を受けて 
富士山本営浅間大社を
創建するなどしています。

この平城天皇ですが体が弱くて 
即位してほどなく病気になりました。

この頃病気などは 恨みを持って
亡くなった人たちの祟りだと
されていましたので 弟に
譲位してしまいます。 

在位はわずか3年ほどでした。
 
 

田村麻呂さんも担ぎ出される

 
ところが上皇になってから
揉め事を起こすのですね 
有名な「薬子の変」です。

親王だったころから
薬子さんを寵愛していまして… 

譲位したんだから
大人しくしてれば
よかったんですよねえ。 

父君が「平安京から遷都しちゃだめだよ」って
言ってるのに 奈良の平城京へ
遷都するとか言い出して 
嵯峨帝と対立しちゃいます。

薬子さんとその実兄 仲成さんが 
唆(そそのか)したとか
言われているのですが…。

まあねえ せっかく即位して
さらにわが世の春を
謳歌しようと思っていたのに

急に弟に譲位しちゃって 
面白くなかったかも
しれませんけどねえ 薬子さん。

で、この揉め事ついには
「挙兵」なんてところまで 
話がこじれてしまい 
田村麻呂さんも駆り出されるのです。

まあ結局は上皇側が劣勢とみて 
落飾して出家したし 
薬子さんは服毒しまして 

兵士がぶつかり合うような 
大事には至りませんでしたけど…。

ただ仲成さんは
日本が律令制をおっ始めて
最初の「死刑」だったみたいですよ。

そして田村麻呂さんは 
この騒動の翌年811年 5月に 
54歳で病にかかり 波乱万丈の
生涯を閉じてしまいます。

1月ころまでは 外国の使者を
接待するとかしていたんですけどねえ…。

病としか記録されていないので 
詳しいことはわかりませんが…。

嵯峨天皇は大変悲しまれたそうで 
田村麻呂さんの業績をたたえる
漢詩を作って政務を休まれ 
日を過ごされたと伝わっています。

そして数々の副葬品と共に 
城の東に棺を立てるように
埋葬されたそうです。

これは亡くなった後も
この豪傑に 平安京を
守ってほしいという願いが
こめられているのでしょうね。

文の菅原道真 武の坂上田村麻呂
といった感じで 武の化身みたいに
言われています。

様々な伝説に彩られた
輝かしい武の巨人だったのですね。

ちなみに平城天皇というのは
私の大好きな在原業平さんの
お祖父さんにあたる方です。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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