原敬首相 東京駅にて暗殺さる

原敬 暗殺 障子窓

 
原敬 暗殺
 
1921年の今日11月 4日に
東京駅のコンコースで
暴漢に胸を刺された原敬首相は 
ほぼ即死の状態でした。

東京駅は美しく建て直されましたが 
この事件があった場所は
プレートがつけられ 床には
六角形のマークが埋め込まれています。

犯人は国鉄の見習い職員だったそうで 
当時の政府に不満を
持っていたらしいのですが 
何も殺害しなくてもよさそうなものを…。

どうしてこういうことを 
やらかしちゃったんでしょうかねえ。

武士の時代ではないのだから 
上に立つ人の鶴の一声で物事が
決まるわけじゃあないんだけどなあ。
 

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理解不能な暴挙

 
いえ 武士の時代だって
お殿様は 善きに計らえとか
言っちゃって 実務はほとんど
ご家老以下の者たちが
やってたんでないの…。

まして議院内閣制を
とっているわけですからねえ。

ただこの犯人は死刑を求刑されたのに 
無期懲役に減刑されて執行。

原敬首相を襲った時は 
まだ18歳(!)だったので 
何らかの意思が働いたのかも
しれませんが…その後 

どういう訳か恩赦で釈放されて
13年後の1934年に
自由の身になっています。

裁判も異例に早く結審したそうですし 
記録もあまり残っていないなど

何だかとても怪しい感じのする
後日談が残っています。

まあ出獄してからは
何も怪しいことはせず 

生涯を終えているので
いいと言えば いいんですけどね。
なんだかなあ…。

一方 原敬さんは盛岡藩の
家老職を務めた家柄の
出身だそうで 世が世なら
ご家老さまだったんですよ。

1871年15歳になって上京し
南部藩の藩校に入りますが 

学費が続かなくて 翌年
お金のいらないカトリックの
神学校に入りました。

原さんはこの後 横浜へ行って
洗礼を受けているそうです。

そして1876年に司法省司法学校に 
優秀な成績で入学しますが

寮の待遇改善運動に加担したカドで 
退学になってしまいます。

学校を追い出された原さんは 
中江兆民の仏学塾に入り 

同郷の先輩の紹介で 
郵便報知新聞社に就職し 
フランス語の翻訳などをしていました。

後には論文を書いたりもしたそうです。 
この辺りが普通じゃないですね。

ところが1881年に
大隈重信さんの一派が 
この新聞社に入ってきました。

この年に起こった「明治14年の政変」と
呼ばれる事件がありまして。

当時自由民権運動などが
高まりを見せていて 憲法制定が
議論になっていました。

伊藤博文さんや井上馨さんは
ビスマルク憲法がいいねと言い 

方や大隈重信さんや慶応義塾の
門下生たちは 英国の
議院内閣制の憲法がいいよと言って 対立。

結局大隅さんたちは 政府から
追い出されてしまいました。

実はこの追い出された
慶応義塾の門下生の中には 
福沢諭吉さんもいたそうです。
 
 

少しずつ政治の世界へと…

 
原さんは彼らと水が合わずに 
この会社を辞めることになります。

そんな原さんを政府の高官が
御用新聞の大東日報に 
引き入れるのですが

ここも経営不振で すぐに
辞めざるを得ませんでした。

でもここで政府に関わりを持ったことで 
外務省に採用されます。

フランス語が出来ましたからね、
芸(学)は身を助けるのです。

翌年天津領事になった後 
1885年から3年ほど外務書記官として
花のパリ~に駐在しました。

この辺りから原さんは 徐々に
政治の世界に入っていくのです。

何事も巡り合わせなのでしょうが 
政治の世界と民間企業を行ったり来たり。

政治の世界では 陸奥宗光さんに
引き立てられて 陸奥さんが
外務大臣になると一緒に
外務次官になったりとか 
引っ張り込まれていきます。

外務大臣が変わったので 
一旦外務省を辞めるのですが 

今度は伊藤博文さんがこさえた
「立憲政友会」という政党に誘われて入り 
いきなり幹事長を務めます。

原さんという人は
政党間の力関係などを 
上手に扱う人だったようで 

その意味では凄い政治的な
手腕の持ち主だったんですね。

そして1918年に第19代
内閣総理大臣に就任しました。

この時 爵位を受け取らなかったので
「平民宰相」と呼ばれたそうです。

昔の国務大臣さんたちは 
爵位を授けられることが多かったんですね。

政策としてはどちらかというと 
民衆のための政治よりも 政治家や
商・財界に向けたものだったようです…。 

実は 多くの人々が待ち望んでいた
「普通選挙法の施行」に
否定的だったのだそうです。

実際普通選挙法が施行されるのは 
1925年まで待たなくてはなりませんでした。

もしかすると政策が庶民に向いて
いなかったことが
暗殺者の上司には不満で批判が多くなり

その影響を受けた若者が 
凶行に及んでしまったのかもしれません。

政党の中で原さんと確執があった
西園寺公望翁は 原さんが
亡くなったことを聞いて
「私利私欲のない人だった」と
言っているそうですし

明治の元勲 山縣有朋さんも
その死を嘆き 翌年には
自身も亡くなってしまいます。

誇り高く自らを律した
優秀な人だったらしいので 

もしももっと長生きしていたら
どんな仕事をしてくれていたのでしょうか。

実際に原さん亡き後の政党政治は 
一挙にバランスを欠いていったそうです。

山縣有朋さんの言葉を借りるなら 
「ああいう人間をむざむざ殺されては
日本はたまったものではない」…むむむ。(`~´)
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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