「奥の細道」へ いざしゅったーーーつ!

 
奥の細道へ出発
 
今日は 俳句の完成者 松尾芭蕉さんが 
弟子の曾良さんとともに

「奥の細道」への旅に
出発した日なのです。

なぜこの日を出発の日に選んだのか
ちゃんと伝えられています。

つまり偶然や成り行きではなく 
明確な意図があったのです。

この日1682年(元禄2年)3月27日は 
むか~し昔の歌人 西行の
500回忌の命日にあたるのでした。

願わくば 花の下にて春死なん 月は如月 望月のころ

この歌のとおり西行は
春の日に亡くなりました。

この人はもとは由緒正しい生まれで 
武勇にも優れた武士でしたが 

突然すべてを捨てて
出家してしまいました。

一説には失恋が原因だったとも
言われています 妻帯者のくせに。( ̄∵ ̄)

諸国を巡りながら たくさんの
和歌を残しています。

わざわざ西行の命日に出発したのは 
この旅が彼のような先人が歩んだ

歌枕や名所などを丹念に辿ることを
目的にしていたからでした。
 

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若い頃は謎も多い芭蕉さん

 
さて芭蕉さんその人は 
今の三重県伊賀の出身であることは

わかっているのですが 
詳しい月日はわかっていません。

また出生地も2か所の説があり 
芭蕉さんが生まれて間もないころ
引っ越しをしたらしいのですが 

生まれた時と引っ越しと どちらが
先だったのか はっきりしないようです。

まあ将来のことはわかりませんからねえ。

あまり裕福とは言えず けっこう
若い頃から苦労したようです。

最初に仕えたのは武家の
厨房だったようですね。

詳細は不明ですが 当時の
芭蕉さんよりも2つほど年上だった 

この家の息子と一緒に
京都の俳人に師事することになり 
この道に入ったのでした。

こういう巡り合わせが
とても大切なんですよね。

で 当然のことながら
めきめきと頭角を現すのです。

およそ2年後には 選ばれて句集に
載せてもらえるようになっています。

地理的に京の都にもほど近いし 
嗜みが優雅というか趣があるというか…
文化の香り高い土地柄だったのでしょう。

そんな土壌もあっていい先生がいて…
環境が整っていたと言えますね。

30歳くらいの時 師事していた先生から 
免許皆伝じゃないけど

もう君は卒業ねという意味の
俳諧作法書なるものを伝授されています。

それを機に江戸に下り だいぶ経ってから
芭蕉と名乗るようになるのですが
正直 生活はどうしていたのかなあ…と。

同じ嗜みを持つ人たちと
交流するのはわかるけど 

お弟子さんをとったり
裕福な人に俳句を教えるなどして 
お月謝をいただいていたんでしょうかねえ。

間違いなく俳句の先生をしていたのですが 
いわゆる書評というか 

お弟子さんたちとのやり取りなどを 
文字には残していないんですね。

なのでその句会などの様子は 
想像するしかないのですけれども

やはり蛇の道はへびなので
愛好の衆の中では 
すぐに広まることなのでしょう。

本人がよい句をひねるだけでなく 
そのサロンに集まる人々との交流が
さらによい波紋を広げて行く…
そんなイメージでしょうか。

たぶんその場では武士も町人もなく 
芭蕉先生を慕い 俳句を吟じるのが

好きな人たちが自然と集まって
きていたんだろうなあ…と。

それか 武士は武士だけのクラスとか 
町人は町人だけの集まりとか 便宜上

分けていたのかもしれませんけども 
学校のクラブや同好会のノリかな。ぷぷぷ

方々に出かけては俳句を詠んで 
句集や紀行本にまとめているけれど

旅の資金はどこから出ていたんだろうなんて 
つい下世話な発想をしてしまう。
 
 

芭蕉さんがしばしば吟行に出掛けたのは…?

 
「奥の細道」にしたって 
かなり遠くまで足を延ばしているし…。

こんなだから
「松尾芭蕉の正体は 実は隠密だった」

なんて怪しい発想をする
後世の人間が出てくるですよ 私みたいに。

吟行を隠れ蓑に諸国をまわり 
情報収拾をしていたとか 

情勢を探っていたとか
まあそう思えないこともない
世情ではあったと思います。

「奥の細道」は全行程が
およそ2400kmにも及ぶ 
大旅行だったのですが

45歳という年齢にしては 
この距離を踏破したとすると 

とんでもなく足が早くて
それゆえに「松尾芭蕉忍者説」
とかもあるんですと。んえええ?

何でも一緒に俳句を習った息子は
服部半蔵の従兄弟だったんだとか。ほええ?

そうは言っても 昔の人は旅といったら 
自分の足で歩くことが基本でしたから

普通の人でも 今の私たちとは
比較にならないくらい健脚だったのでは…?

だけど…全体的に寿命が短かったから 
その感覚で言うと45歳はすごいかも…。

しかも芭蕉先生と一緒に旅をした 
弟子の曾良さんに至っては な・な・なんと

幕府から密命を受けていたとか。 \(◎o◎)/ 
ええええ? マジですか?

ま とにもかくにも無事に旅を終えて
「奥の細道」もちゃんと完成させたし

しっかり物事を完結させているというのは 
すごいと思いますね。

たくさんの場所を歩き回りましたから 
各地にゆかりの石碑などがあります。

でも芭蕉さんの生地 
伊賀では句碑とは呼ばず 
芭蕉塚と言うんだそうです。

風流人として生きるのは 実際には
かなりたいへんだったと想像します。

まあ裏のお仕事があったのなら 
それはそれでいいんですけども
(まだ言ってる)

道を究めようとすれば 
やはり捨て去らなくてはならないものが
多かったのではないでしょうか。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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