今日は「天正遣欧少年使節」が帰ってきた日

天正遣欧使節団 帰国 障子窓

 
天正遣欧使節団 帰国
 
天正18年の今日 6月20日は
これより8年前の天正10年の 2月に
出発した「遣欧少年使節」が無事、
長崎に帰ってきた日だそうです。

あの「大事件」を知らずに
はるか欧州まで行ってきたんですね。

全行程で8年もかかっていますよ。

キリシタン大名らの名代として出発した
少年たちは14~5歳だったそうですから 

本人はもとより親御さんも
決死の覚悟で送り出したのではと。

それとも「神の代理人」に会えること 
尊敬する宣教師さんたちの
街を見られること

同じ神を信じる人たちだけの世界という 
夢のような場所に行かれることは

信仰を持つ人にとっては 
むしろ喜びの方が
大きかったかもしれませんね。
 

スポンサードリンク

 

信仰の強さを試されたと感じたかな

 
まあ宣教師さんたちが
普通に来日しているのだし 

その航路を逆に辿ればいいわけだから 
未知への大冒険とかでは
なかったと思いますけどね。

天正10年の2月の出発だったということは 
信長さんも健在でしたが このことは
承知していたのでしょうかねえ。

信長さんのことだから事情が許せば 
自分が行きたいと思ったんじゃないかしら。

外の世界に興味があったみたいだし…
あ…でも キリシタンじゃないから 
だめか。

新しもの好きだったけれど 改宗は
していないですからね 信長さんは。

バテレン坊主が偉そうにああだこうだ
言われるのがいやだったんでしょうけど。

この「使節」派遣はイエズス会の
ヴァリニャーノさんの発案らしいです。

この人は現場主義というか 
日本の国の制度などに
自分たちも合わせるべきという
考え方だったようです。

それはちょっとキリスト教徒的思考とは 
かなり違っていて評価できますね。

たとえ彼らが推し進める日本洗脳計画の
ためだったとしても 

入り込もうとする相手を
理解するのは大切なことだし 
そういう視点が抜けていると
成功しないので。

それまで責任者だったポルトガル人の
アジア蔑視が原因で 日本人の司祭を
認めなかったりしたことが 

布教の妨げだとみて 
追い出してしまったとか。

「仕事」の都合上 
イロイロあったんでしょうねえ…。(ー.ー)

一応 日本人のことを
評価してくれていたようです。

まあその背後には同じキリシタン、
カトリック教徒でありながら 

実は国が違うために 
イエズス会の中で日本洗脳計画の覇権を
争っていたというドロドロも
見え隠れしてますが。

ずっと思っていたのですが 
日本の改宗者のみなさんは 
宣教師さんたちの出身国とかって
気にならなかったのでしょうかねえ? 

よもやみんな同じ国だと思っていたとか…?

日本と同じようなイメージしか
持っていなくても仕方ないけれど…
どうだったのかなあ?

ポルトガル語もスペイン語もイタリア語も
とてもよく似た響きですけども 

イエズス会の中での
共通の言語は何だったのでしょう? 

もしかするとラテン語かな。

そこらへんも気になるんですよねえ 
共通項はキリスト教徒という点だけで

もともと外国人同士なのに 
どうやって話をしていたのか
不思議なんです。

宣教師さんによっては 全然違う国の人で 
欧州では本国同士が戦争も辞なさい
間柄だったとか知ってたのかなあ? 

知らせる必要はないので黙ってたと思うけど。

宣教師は諜報活動を目的とした
先遣隊なので それぞれ本国の密命を
受けていたはずです。

地球の裏側まで派遣するために
教会の力を利用して 
実は覇を競っていたとか うわあ…。

「遣欧使節」の発想としては 
ものすごく辺境の地だけど 

日本の存在を欧州に
紹介したかったということと 

日本人に自分たちの高い文化を見せつけて 
信仰にそえて 拡散させたかったという
一石で4、5鳥を狙ったんですね。(笑)
 
 

海の向こうの「別世界」

 
さてこの少年たちの目に欧州は
どんな風に見えたでしょうか。

おっと欧州に着く前にいくつか
南の国々を辿っていく航海でしたね。

年譜をみると凄いですよ、インドのゴアから
ポルトガルのリスボンに到着するまで
8カ月もかかっているんです。(◎o◎)

「太平洋」という名前の由来は 
大航海時代に渡ったいくつかの大洋が 
めちゃくちゃ荒れた海だったそうで 

それらに比べるととても凪いでいて 
穏やかな太平の海ということで
「太平洋」になったと聞いています。

そんなわけで七つの海のほとんどは 
荒れ狂う大洋なのです。

ま、海洋民族が丘に上がったような
九州男児ばかりだったと思うので

アフリカ大陸の周りの荒れ狂う大洋を
乗り越えて行けたんですね。

当時の欧州の大きな都市をめぐり 
王宮や教会に泊まらせてもらうなど

とても優雅な旅で
うらやましく思ったりしますが…。

ホスト側は はるか東の果てから
キリスト教徒を標榜する

「土人」がやってきたと
物珍しさだけで 見世物を見るような
奇異の思いだったと思います。

なぜなら 当時日本人は欧州の方々で 
奴隷として売買されていましたからね。 

石で造られた天を突く巨大な建造物 
豪華な王宮や庭園 平らで開けた土地 

道路や乗り物人々の装束 港や街の風景 
そして何よりも強烈な神への信仰…。

全くの別世界は驚きと衝撃をもって 
少年たちに鮮烈な印象を残したでしょう。

この「天正遣欧使節」の無事の帰国は
日本に印刷機をもたらしました。

グーテンベルクの発明した活版印刷です。

当時はバテレン印刷なんて
呼ばれたようですが 

この技術は文字の数が多く 
しかも縦書きのくずした
筆文字だった日本の実情に
合わなかったようで 残念ながら
あまり普及はしませんでした。

出発した時と帰国した時では
日本の情勢がだいぶ違っていましたね。

少年たちの帰国を待たずに
君主が亡くなったりもしています。

戦国の一時期 少年たちはこの世とは
違う世界を見てきたのかもしれません。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

スポンサードリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました