今日10月11日は 日本の喜劇王エノケンの誕生日

エノケン 生誕 障子窓

 
エノケン 生誕
 
今日10月11日はエノケンこと
榎本健一さんの誕生日です。

日本の喜劇王と呼ばれた
コメディアンで 舞台から映画へと
活躍の場を広げ 全国にその名が
知られるようになりました。

1904年の生まれですから 
明治の最後の方ですね。

昭和の幕開けと共に 激動の時代を
コミカルな映画やミュージカルで
駆け抜けて行った そんな感じでしょうか。

エノケンさんのキャリアは
浅草オペラから始まったんですね。

帝国劇場で上演されるのは 
本格的なオペラやクラシック音楽などでしたが

浅草オペラは下町の
庶民のためのオペラみたいな 
住み分けがされていたようでした。

でももしかしてこういうことが
起こらなければ 庶民にまで
西洋音楽を舞台で楽しむようなことは 
浸透しなかったか あるいは 
この分野ではずっと立ち遅れていた
かもしれませんね。
 

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最初からコメディアンではなかった

 
日本人はいつも何か変わったものや 
新しいものが好きだったんですねえ。

江戸から明治にかけて 流血の騒ぎも
少なくありませんでしたが

長い太平の世が続いたおかげで 
人々にはものごとを楽しむ文化というか

暮らしに娯楽がちゃんと
根付いていた証拠です。

こういうことは 明治になって
突然西洋風にするからと言われて
急にできるようになることでは
ないのですねえ。

それなりの土壌というか 
基本になるものや考え方が

人々の中にしっかりと
定着していないと 浸透もしないし
人気も出たりはしないのです。

浅草オペラの「根岸大歌劇団」の
俳優だった柳田貞一に弟子入りして

1922年ビゼーの「カルメン」で
コーラスに加わりデビューしました。

歌でこの世界に入ったので 
後年にもレコードを残すなどしていますね。

ところが翌年に起こった関東大震災で
壊滅的な被害をこうむり 劇場も
使えなくなってしまいました。あちゃー。(/_;)

でもやっぱり時代の先頭を
走るような人は違っていて 
少々のことではめげません。

エノケンさんは当時最先端だった
「活動写真」に目をつけ京都へ行きます。

ここでは寸劇というか今でいう
コントかもしれませんが
仲間と演じています。

このコミカルな演技が
本格的に エノケンさんを
エノケンさんに導いたのです。

やがて1929年には
古巣の浅草に戻って 仲間と一座を
立ち上げ舞台に立っていました。

たいへん人気があったそうで 
これに目をつけたのが松竹さんでした。

エノケンさんの一座を専属で迎えて 
浅草の松竹座で常設興行を行い 

下町での名声を得て 確固たる地盤を
固めることに成功したのです。
 
 

予期せぬ苦難を乗り越えて

 
エノケンさんが
どれだけスターだったかは 
作られた映画の数でもわかります。

年に3~4本撮影されていたそうで 
とんでもなく忙しかったのではないかと。

時代背景に合わせざるを得ないことも
ありましたので 大東亜戦争が
勃発したころからは
コメディ映画は数を減らし 
人気の停滞なども経験します。

戦後は「歌うエノケン…」など 
いわゆる音の出る映画が
主流になりましたので

エノケンさんのコミカルさが 
一層強調されることにもなったのかなと。

かなり本格的に歌える
コメディアンでしたから。(^艸^)

輝かしい活躍の陰で
ところが舞台で小道具を足に
落としてけがをしたことが原因で 
脱疽(だっそ)を起こしてしまいます。

これは壊死といって
細胞が死んでしまうもので 
傷のように治りません。

1952年にはこの病が再発し 
右足の指を切断せざるを得ませんでした。

このころから舞台が中心になり
「日本喜劇人協会」を設立して
自ら会長になりました。

1957年に結核で息子さんを亡くし 
さらに1962年には
またも病が再発して

今度は右足を大腿部からの切断を
余儀なくされたそうで 
失意のあまり自殺未遂をするなど 
私生活では大変な苦難を味わっています。

俳優さんが自分の体の一部を失くすなんて 
どんなに大きな落胆だったでしょう。

そんな中で 生きる意欲を取り戻せたのは 
病床を見舞ってくれた米国の喜劇王
ハロルド・ロイドの
(本物!この人 来日していたんですねえ。)

励ましがあったり 
奥さんの献身的な看護のたまものでした。

やがて精巧な義足で 
舞台や映画に復帰するのですが…。

喜劇なのに笑わないお客さん… 
心中いかばかりだったでしょうか…。

それでも今度は義足に細工を施して 
舞台に立ったそうです。

エノケンさんの晩年にはテレビが登場し 
歌番組やコマーシャルなどにも出演しました。

常にその時の最先端のものに
出会っていくのですね。

舞台などでは本当に体を使うので 
コミカルな演技も大変だったと思うのですが 

テレビなら(当時はVTRとかは
まだないですけども)
直接視聴者と対面していない分

若干 楽が出来たのではないかなと…
これは想像です。

俳優さん、役者さんの中には 
一期一会の生の舞台を
好む方も多いようですけれど

コミカルな動きや演技がウリである
エノケンさんの場合は 
義足に細工をしてまで
舞台に立とうとしていました。

きっと舞台がきっかけだったので 
最後まで舞台に立ち続けたいと
願っていたのかも…。

そして1970年の元旦 
著しく体調を崩して緊急入院した
日大病院で 1月 7日の午後3時前 
肝硬変のため永眠しました。

こぼれそうな大きな目と大きな口とで 
愉快な表情を浮かべるエノケンさんは
日本の喜劇史に大きな足跡を残した 
偉大なコメディアンでした。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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