今日は幕末の三舟の一人 勝海舟の生まれた日

 
勝海舟 誕生
 
1823年の今日 3月12日
今の墨田区両国のあたりにあった

父君 勝子吉の実家 男谷(おだに)家で
ひとりの男の子が生まれました。

後に勝海舟と名乗り 
その才気と人柄を慕われ 

幕末から明治の激動の時代に
身を置きながら 縦横に
生き抜いた幕臣です。

個人的にはやはり
「江戸城無血開城」の功労者
というのが一番かなと。

討幕派からみれば幕臣でありながら 
幕府の形では外国に
対抗できないと説くけれど

だからと言って討幕派には加わらないし 
あんたどっちなの?と言われそうな立場。
 

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やっぱり人間の器の大きさか?

 
海舟さんは幕臣だから斬るもんね!と
決心して会ったのに 

海舟さんの持論を聞くうちに 
すっかり丸め込まれちまった
坂本龍馬さんという人もいましたっけ。

龍馬さん本人も相当な
人たらしだと言われていましたが 

その人たらしを たらし込んだわけですから 
途方もない腕前と言えますねえ。ぷぷぷ…。

そういえば薩長同盟にこぎつけた時 
龍馬さんに説得されたのは西郷どんでした。

「江戸城無血開城」の時も
海舟さんにたらしこまれたのは 
西郷どんでしたね。

西郷どんという人は説得され易い人
だったのでしょうかねえ?

まあ…こちらの場合は
天璋院さんも一緒になって 
説得にあたったので 彼女の力も
大きかったかもしれませんが…。

どちらの側も できれば
戦争なんかしたくなかったわけで 
その点では一致を見ていたのですよね。

外国勢はさっさと首都決戦を始めんかいと 
ほくそえみながら待っていたのに

そのもくろみを見事に打ち砕いて
江戸城を無血開城させたことは 
それだけでも素晴らしい功績です。

まあ結果を知っているから 
そんなのんきなことを
言っていられるのかもしれません。

当人たちは それこそ命がけの攻防で
真剣勝負だったわけですもんね。

海舟さんの父君は男谷家から
勝家に婿養子に入ったのだそうですが 

この勝家というのは
何と天正年間からの御家人で 

すんごい古くから仕えていた
幕臣だったそうです。

剣術をよく行い 直心影流の免許皆伝~! 
禅を結び 兵学は山鹿流だそうです。

蘭学は福岡藩の屋敷に住んでいた
永井青外涯という人に学んだのだそうです。 

この後 私塾「氷解塾」を開きました。
蘭学つながりなのでしょうか 海舟さんの
妹さんは佐久間象山に嫁いでいます。

で、1853年にペリーさんがやって来て 
開港を迫られました。

困った幕府は海防に関する意見を広く
一般からも公募したのだそうです。

ここに海舟さんも意見書を提出しましたら 
老中首座の阿部さんの目に留まり

1855年のお正月 
異国応接掛附蘭書翻訳御用に
任じられたそうです。

漢字って便利ですよねえ、
書いてある字を見れば 

どういうお役目だったか素人でも
だいたい想像がついてしまうという 
分り易さですからねえ。

この後有名な長崎海軍伝習所に入るのですが
オランダ語は達者だったので

学生とオランダ人教官との
連絡役なども務めました。 

けれども海軍の知識は
ほとんどなかったのだそうで 
ちょっと畑違いだったみたいです。 

でもせっかく役職についたし 
幕府の期待に応えたかったので 
がんばったようです。

船酔いと苦手な数学に苦しんだそうですが 
この時に薩摩藩主島津斉彬さんとも
お友達になれたみたいで 
海舟さんはかなり影響を受けたようです。

米国へ行ってみたいな~と言ってみたら 
すんなり行って来られちゃったりするとか

運もあるのですが やはり外国へは 
行って見聞きし 触れてくるということが
非常に大切なことなんですね。

その渡米の際の咸臨丸で 
あの福沢諭吉さんとも一緒だったようですが 

実はこの二人ソリが合わなかったらしくて 
けっこうな確執になったみたいです。
 
 

最後の最後まで「幕臣」を貫いた

 
で、海舟さんは幕臣だったので 
当然徳川家に仕えていたんですよね。

実際に家慶さん 家定さん 家茂さん 
慶喜さんと将軍の在職が比較的短かったので
4人もの君主に仕えたことになりました。

事実上幕府が倒れ 
新政府に生まれ変わった時 
海舟さんは蟄居というか謹慎中でした。

海舟さんの基本的な考え方が 
幕府じゃだめでしょという
立場だったものですから

倒れる寸前だったけれど 
幕府内での立場が危うい状態でも
あったらしいのです。

ですが 新しい政府になって
海軍は必要だよねということで 
お呼びがかかったみたい。

船酔いに苦しみながら
操船技術を身につけたような 

つけないような…そこら辺は
微妙な感じらしいのですが 

まあとにかく海軍は
必要だからということで。(笑)

最期の将軍慶喜さんは 
もちろん将軍ではなくなったわけですけれども

幕末の混乱期に海舟さんとは
意見の対立が何度もあったりして 
溝ができてしまったらしいのですが

明治政府に対して 慶喜さんを
赦免するように海舟さんは
働きかけていたのだそうです。

その甲斐あって謹慎を解かれた慶喜さんは 
明治天皇にも謁見を許された上に

特別に公爵という爵位を
下賜されたそうです。

大政奉還の時は 御簾越しだったと思いますが 
今度は直接お目にかかったんですねえ。

さらに海舟さんのとこでは
長男に不幸があり 慶喜さんの
末の息子を勝家の養子に迎え

亡くなった長男の娘と添わせることで 
慶喜さんとも和解することができたそうです。

しこりを残したまま別れたくなかったのかな? 
江戸っ子らしく筋を通したという感じです。

外国の脅威と国内体制の問題に 
早くからしっかりとした

対抗策を考えることのできた
稀有の人物として
時代が呼んだかのように

生まれるべくして
生まれた人だったのかなと。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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