偉大なる古都コンスタンティノープルの誕生日

 
コンスタンティノープル
 
西暦330年 5月11日に
東ローマ帝国の都として誕生しました。

「コンスタンティヌスの町」という意味で 
皇帝コンスタンティヌス1世が
当時植民都市だったビザンティオンを
整備して作った町でした。

これ以前からこの地は東西の文化が
出会う交易の要衝として栄えた町ですね。

ここでざっくりローマ帝国について
おさらいしておきましょう。

なんせ歴史が長いし 複雑で 
わけわかんないから。

今からおよそ2000年ほど前に
強大な軍事国家として 周辺国を

次々に支配下に収めていき 過去にも
未来にも世界最大の統治領域を持つ
広大な大帝国となったローマ帝国デス。
 

スポンサードリンク

 

コンスタンティアヌスさんがローマ皇帝なので…

 
その政治形態として実はけっこう長い間 
共和制を取っていたことは 
割と忘れられているのですね。

「帝国」という名称に惑わされるのですが 

これは自国領土の他にも その統治下にある
国や属州を持つ国のことを
「帝国」と定義しています。

政治形態として見た場合 ローマ帝国は
選挙権を持つローマ市民から選ばれた
「元老院」と呼ばれる議会を有し 

彼らが承認した権力を行使する
執政官と呼ばれる役職がありました。

この役職が複数だった時は「三頭政治」とか
呼ばれましたが 政治的に優れていて

目立つ活躍をすれば 人々の期待は
次第に一人へ集中していくようになります。

有名なユリウス・カエサル
(ジュリアス・シーザー)は 

権力が集中してきて もう少しで全権を
握れるというところまで来て 
暗殺されてしまったのです。

そしてその後を継いだオクタヴィアヌスは 
すべての権力を握ることに成功し

彼をもって「アウグストゥス」と
呼ばれるようになりました。

これが「ローマ皇帝」の誕生です。

この間栄華を誇った時期もありましたが 
西暦300年頃のこと 属州の中に起こって 

地方の1宗教に過ぎなかったキリスト教は
たくさんの殉教者を出しながらも 
帝国のほぼ全土に信徒を広げていたそうです。 

宗教的にはすでにローマ帝国を
手中に収めていたようなものですな。

そんなわけで 冒頭に出てきた
コンスタンティヌスさんが

「ミラノの勅令」(313年)で
キリスト教を国教に決めたんですね。

で この当時ローマ皇帝は同時に
東西の正帝と副帝の4人いたんですと。

広すぎる領土を分割統治する 
いかにも合理主義の発想でいいと思います。

この時代 キリスト教徒は 
歴代のローマ皇帝から
かなり迫害されていましたが

311年に東方正帝が弾圧…よさない?
という寛容な命令を出したのだそうです。

コンスタンティヌスさんは キリスト教を
政治的に利用しようとしたらしくて

「ミラノの勅令」ももう一人の
皇帝リキニウスと共同で出したそうで。

ですが この4人の皇帝は制度として
確定してなかったし 

支配下においた民族の反乱やら 
いわゆるゲルマン民族が移動したりとかで 

とにかく 広い帝国内で
ごたごたが続いていました。

このころは皇帝自らが戦闘の先頭に
立っていたりして 大変勇ましいのです。

こののち色々あって結果的に皇帝は
このコンスタンティヌスさん一人になります。

キリスト教を帝国の統治に
利用しようと思ったようですが

本当は まんまとキリスト教に
入り込まれたのでは
ないかなあと思うのは 私だけ?

だってさあ この後あんなに
素晴らしかったローマ時代やそれ以前の

豊かな神話の世界がみんな破壊されて 
無かったことにされちゃったもん。

ルネサンスの頃 少し復活したけど 
こういう文化破壊は許せなのよねえ 私。
 
 

ともあれこの街を都にしたのは正解

 
いろいろあったけど皇帝が
コンスタンティヌスさん一人になったし 

東方からササン朝ベルシャなどの侵入を
防ぐ目的もあって 交易の要衝 
ビザンティオンに遷都したんですね。

このビザンティオンという
以前の街の名前から 

ビザンチン帝国なんて
呼び方をしたりもするので 
混乱が生じるわけですが…。(私だけ?)

整っていて人口も多く 非常に文化の
香り高い都市になったこともあり 

芸術や建築などの様式名として
「ビザンチン様式」というのがあったと
思いますので それが帝国の名前にも
用いられたのかもしれません。

残念なことにコンスタンティヌスさん自身は 
337年に亡くなっているので

素晴らしい都になったのを 
見てはいないのですけれども。

この後も、まだごたごたはずっと続きまして 
幾度も攻撃を受けたりしています。

まあ欧州にあって しかも
交易の要衝となれば 当然かもしれません。

それでも1453年にオスマン帝国が
この地を征服して 
東ローマ帝国が滅亡するまで 

実に1123年もの間 
都であり続けたことは 

欧州という環境を考えると 
ほとんど奇跡と言っていいと思います。

ま、そのオスマン帝国でさえ しっかりと
その都を受け継ぎましたし 

今ではトルコの歴史的観光都市で 
イスタンブールと呼ばれています。

途中から異教徒に征服されましたので 
異なる文化が流入して化学変化を起こし

初めの頃とは また違う味わいの
都市になりはしましたけれども

この地を都に定めたコンスタンティヌスさんも 
この都市の素晴らしい繁栄と

長く続いた歴史にきっと
満足してくれていると思います。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

スポンサードリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました