今日は稀代の色男 在原業平の亡くなった日

業平忌 障子窓

 
業平忌
 
というタイトルにしましたが 
申し訳ありません、 

実は在原業平さんの命日は
 5月28日なのです。

28日には 他のことをネタにしたので
業平さんのことは書きたかったけど
書けませんでした。

でも個人的に業平さんが大好きなので
どうしても取り上げたくて…。
ゴミンナチャイマシ。

独断と偏見に満ちた
自分のブログだし 許してね。

825年の生まれというだけで 
詳しい日付は伝わっていません。

「六歌仙」という特別チームにも
入るほど和歌の名手でした。

菅原道真公も認める 
すんごい美形だったそうです。
 

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本物の貴公子だった 業平さん

 
この点は今の感覚の美形と 
当時の美形が必ずしも一致しないので

あまり大きな期待は
持たないようにしています。

と・は・い・え 私の中では 
光源氏と互角の美形として
ランク付けされております。

父君は阿保親王といって
平成天皇の第一皇子ですし

母君は桓武天皇の皇女ですから 
両親がともに天皇直接の
お子でいらっしゃるという
とんでもない出自だし。

この点もあまり深く
考えないようにしています。

とにかく この並ぶものなき
高貴な生まれであると。

ですが父君の代ですでに
天皇になるとかそういうことから
外れてしまっていたのですね。

「薬子の変」という事件に
巻き込まれてしまい 

臣籍降下せざるを得なく
なってしまったのです。

高貴で美しすぎるのが災いして(?)
生まれる前から女難の相ですよ。

そしてやはり不遇の身の上であった
惟喬(これたか)親王と仲良しで

よく鷹狩に出かけたり
宴を催したりしていたようです。

まあ平たく言えば 親王とつるんで
遊び歩いていたのですね。

その合間隙間にたくさんの
女性たちとも逢瀬を楽しんでいたと。

その意味では本当に
「まめなる」人だったようです。

この惟喬親王も第一皇子でありながら
生母が藤原氏の出身ではなかったため 
(業平さんとは近い親戚になりますが)
東宮になれなかった人でした。

業平さんたちが生きた時代は
平安初期といわれる頃ですが

貴族の息子たちは公達(きんだち)とよばれ 
朝廷にお仕えするには 唐の科挙にならった
試験で昇格していく仕組みでした。

業平さんは出世に興味を持たなかったのか 
あるいは出自のせいで 

出世をあきらめていたのか 
そんなには出世していません。

お仕事で出世するより
その時々の感情や心持ちを
和歌にするのが得意でしたし

優れた容貌も手伝って
モテまくったので 
心のままに生きる方を
選んだのかもしれません。

腹違いの兄 行平さんは
わりと出世したんですけどね。

そう この時代兄弟姉妹でも 
生母が違うというケースは普通でした。

比類なき高貴な血筋は 
業平さんだけだったのです。
 
 

なかなか興味深い「伊勢物語」

 
ところで「伊勢物語」の主人公「昔男」とは
業平さんだと言われています。

作者が誰で いつできたのかはわかりませんが 
業平さんの詠んだ歌で 彼の辿った人生と
よく似た男の人生が綴られていますからね。

実際 美しかったので女性の方だって
放っておかなかったでしょうし

「伊勢物語」にあるように 
本当に高貴な身分の姫君に手を出したのが
しっかりみんなにバレちまって 
東国へ左遷されたりしていますから。

まあその道すがら 伊勢の斎宮
(天皇の代わりに伊勢神宮に
仕える皇女)にまで

手を出しているので 懲りていないし 
反省しているようにも見えないです。

その東国左遷の原因になった
禁断のお相手の姫君というのが 

藤原高子(たかいこ)さんで 
後の二条妃(にじょうのきさき)です。

業平さんとはかなり年が離れていますけれど 
稀代の色男 まめなる業平さんには

そういうことは
関係なかったのかもしれません。

ただ東宮妃にと目されていた
藤原家の姫君でしたからねえ…。

思い切り相手が悪かったとしか
言いようがなくて 
禁じられるほど燃えましたが 

すぐにバレた上に もう決して
手の届かない宮殿の奥~の方へ
連れ去られてしまいました。

百人一首に選ばれている有名な歌

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 韓紅に 水くくるとは

これは二条妃に送られた屏風の絵が
素ん晴らしいと褒めちぎった歌です。

二人が仲を引き裂かれて 
時間が経ってから再会した時でも
あったようですね。

二人の胸にはどんな思いが
去来したのでしょうか…?

業平さんは光源氏と違って
実在の人物だということが 
とても心惹かれるのです。

私が業平さんの歌で一番好きなのは
世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし

思うこと 言わでぞただにやみぬべき 我と等しき 人しなければ

そして亡くなる時に詠んだ
辞世の歌がこちら

ついに行く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを

このように業平さんの歌は
とても分かり易く ストレートな
表現になっています。

それこそ普通に話をするかのように 
歌がでてきたのではないでしょうか。

880年の 5月28日 
業平さんは帰らぬ人となります。

この時はすでに退職して
屋敷にいたそうで 死因は
卒中だったと言われています。

若い頃からお酒は
よく飲んだみたいなので…

そう何かにつけて親王さんたちと
つるんでは お酒を酌み交わし
(当時は夜通し飲むことが多かったとか)

和歌を詠んでいたので 
それが祟ったかな。

江戸時代に描かれた「業平涅槃図」は 
業平さんが亡くなったのを 

人だけでなく 動物のメスまで
嘆き悲しんでいるパロディですけど
本当にそうだったかもしれませんよ?(笑)
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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