太古のロマン吉野ヶ里遺跡は黙して語らず

 
吉野ヶ里遺跡
 
タイトルから大袈裟にしましたが 
私の大好物がまた出てきましたねえ。

1989年(平成元年)の今日
 3月 2日に 佐賀県の吉野ケ里遺跡で 

かめの形をした棺の中から
柄(え)のついた銅剣が出てきたのです。

弥生時代のこのころは 
人を入れられるほど 大きな
かめの形の棺を…作ったんですねえ。(◎o◎) 

粘土で作っているのだろうし
あれって柔らかいから

大きなものを作るのは
結構大変な作業なんでないかい…?

何本か似たような銅剣は
出土しているのだそうですけれども

持つところまでついた形のものは 
初めてだったのですね。
 

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研究が進むほど 解明に期待が大きくなる

 
昭和61年から本格的に
発掘調査が始まっていましたが 

それまでにない大規模な集落の跡とか 
貴重なものが ごろごろ出てきてた
ところへもってきて

さらにこんな立派な剣が収められた
棺まで見つかったし 考古学ファンも含めて

「もしかしてっ 彼の国は九州だったか?」
みたいに浮足立ったことでしょう。

残念ながら日本古代史最大のミステリー
「邪馬台国」の所在地が 本当は

どこだったのかという問題は 
それから35年近く経った 

今なお決着がついていない 
超妄想特大ロマンのままなんですけどね。

まあ縄文後期から弥生時代、古墳時代…と
遺跡が眠りについてから

経過した時間を考えれば 30年や
50年なんて屁みたいなもんですよ。
誤差のうちです。

反対に長い時間が経ち過ぎたので 
わからなくなってしまったとも言えます。

中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる
記述だと 今とは度量衡の基準が違うし

…一応一国の正史だから信用したい
気持ちはあるんですがねえ…。

こう言っちゃあなんだけど
「白髪三千丈」のお国柄だけに…

単純に度量衡が違うというだけで 
片づけられない気がしてしまうわけですよ。

返す返すも外国の歴史書でしか 
見聞できないのが残念でならないのです。

できることなら私の生きている間に 
何か決定的な出土品があるとか

その場所を特定し得る発見を
してもらえたらなあと…。
(あくまでも他力本願 ^^;)

吉野ヶ里遺跡の出土品は 
近くの国々で発見される
同・近年代のものと 類似性が高く

古代の人々が海をものともせず 
活発に交流していた様子が想像できます。

海で守られていたはずなんだけどな…。(-“-)

縄文時代にはなかった 対人用の武器が 
弥生時代の遺跡からは
出土しているそうなので

人・物と一緒に「戦さ」も
入ってきたのかもしれません。やっぱりね。

海の向こうからやって来ることってのは 
ろくなことがないのよね 実際。( ̄ー ̄)

ほぼ定住して狩猟を行い 同時に大きな木を
畑のように管理して採集を行っていた

縄文時代は争いがほとんどなかったみたいで 
とても豊かだったようです。

人々は様々な文様を織り込んだ衣服を着 
独創的なアクセサリーでおしゃれを
楽しんでいたみたいですが 

こういうことが可能であること自体 
平和で安定した社会であった証だと 
私の尊敬する方はおっしゃいます。
 
 

未知との遭遇!縄文編(妄想)

 
ここで勝手にイメージをふくらまして…。

ある時突然船で現れ 勝手に上陸してきた
異国の者らが 目の前に広がる

豊かな集落を見て何をしたか 
簡単に想像できます。

大陸の戦火に追われ逃げてきたと
思われる人々ですが 
丸腰で来るわけがありません。

そこに暮らしていた縄文人たちを
追い散らしながら 
定住を始めたに違いないのです。

徐々に…だったと思われますが 
どんどん数を増やしながら…。

あまり大陸の人たちを非難ばかりしても
いけないので がんばって好意的にとらえ
少し違うパターンも考えてみましょうか。 

例えば 最初は難破するなどして 
日本の岸に流れ着いたのかもしれません。

生活を共にし 縄文の人々に受け入れて
もらえたという可能性もあります。

あまり大きな船ではなかったでしょうが 
たぶんすごく数が多かったのでは
ないかなと想像します、

なぜなら戦火に追われたことは事実なので 
一刻も早くその場から逃げる必要が
あったと思われるからです。

後から後から入ってくる
言葉の通じない人々は 

数を増やすにしたがって
自分たちだけの集団で住むようになり 
稲作を始めたのはないでしょうか。

それまでは縄文の集落にいた者も 
渡来の集落に移っていったかもしれません。

なぜなら稲作は用水を整えるなど 
そこの自然に人為的な手を加える必要があり
少人数では できないことだからです。

もちろん数が増えれば 中には
武器を持って来た者もいたでしょうし 

勝手に人んちの山を 
開墾し始めたかもしれませんね。

いずれにしろ数が増えると 
地元の人々と諍いが増えることは
容易に想像できます。

一部共存 一部排斥 一部同化 
どれも規模が違うだけで
同時進行だったでしょう。

こうして新しい「稲作農業」というものが 
日本に入ってきたと思われます。

どんなに好意的に解釈しても 
よそから侵入して来たことには
変わりないです。

ともあれ断片的なピースを
丹念に拾い集めて 

全体の形を俯瞰してみる時
少々欠損している箇所があっても 

全体が見渡せた時の
わくわく感は たまりません。

ウィキペディアなどにある写真を見ると 
きれいに整備されているし

そこら辺の木の陰から弥生時代の人が 
ひょっこり現れても違和感が

ないくらいみごとに 集落を
復元した公園になってますね。

およそ50ヘクタールに渡って 
貴重な遺跡があることがわかって

佐賀県は工業団地か何かに
開発する予定だったけど 
規模を縮小したそうで。

大変賢明な決断を 
心からありがたいと思います。

出土し展示されている様々な品物たちは 
私たちの想像を超えた使われ方を

していたかもしれませんし もしかすると
失敗作で打ち捨てられたものかも…。

でもそこには確実に人がいて 
生活があって人生があったのです。

遺跡も出土品も何も言いませんが 
後世の者に絶えずロマンをくれるのです。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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