今日10月16日は藤原道長が あの歌を詠んだ日

道長の和歌 障子窓

 
道長の和歌
 
1018年の今日10月16日 
藤原道長さんは11歳の後一条天皇に

四女の威子(たけこ)さんを
入内させ中宮にしました。

あまり言いたくないけど 
この後一条天皇は道長さんの
長女彰子さんを生母として
誕生した息子さんで 威子さんは
彰子さんの実の妹です。

もしかすると生母が違っていたりするかな…と
かすかな期待を持って
調べてみたら…ありゃりゃ…
同じお母さんだわ…。(◎艸◎)

つまり後一条天皇と威子さんは 
実の叔母・甥の間柄なんですね。

だから当時でも「一家三后」とか
言われちゃうですよ。

その立后の日に道長さんの屋敷で 
盛大なお祝いが催されたのです。
 

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当時は「有り」だったこと

 
天下の藤原道長さんのパーチーですからねえ 
それはそれは贅を尽くした
豪勢なものだったでしょう。

この席にはどちらかというと
道長さんのことを辛口に評価していた
藤原実資(さねすけ)さんも
招かれて来ていました。

タイトルで「あの歌」と書いたのは

この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば

のことなのですが 即興とはいえ 
まああああなんて歌でしょうね。

さらにこの歌は その実資さんに
向けて詠み掛けたんですと。

普通は詠み掛けられたら 
歌で上手にお返しをしなくてはいけません。

ですが実資さんは返歌を
丁重にお断りして そのかわりこの歌を

その辺に居るものたちで 
唱和を繰り返したんだそうです。

天皇をも凌ぐ天下の実力者に 
正面切って楯突くようなまねはしませんが

どことなく なんとなく
小馬鹿にしたような それでいて決して

無礼だとは思われない
上手な返しになっています。

お世辞にもいい歌とは思えないものを 
みんなで唱和するとか

かなりはっきりと馬鹿にしてる
気がするのは 私だけかな。ぷぷぷ…。
 
 

この和歌は無かったことにしたかった…?

 
実はこのくだり 道長さんの書いた
「御堂関白記」には
書かれていないそうです。

娘が中宮つまり天皇のお后になった 
お祝いの席でのことだったし

たくさんのお客とお酒が入って 
ご機嫌だったと思うのですが…。

どうして書き残さなかったんでしょうね。(`艸´)

この時から1000年もの時間が経過して 
残念ながら和歌に親しむことが
ほとんどなくなってしまった日本において 

学校でちょろっと勉強しただけの私でさえ 
この歌ってどうなの…と思うのですからねえ。

権力者が自らおめでたい席で詠んだもので 
酔っ払いの客の山…という
状況だ・か・ら ぎりぎり許されるかな…という 
すんばらしい出来ですから。

当時の人たちがどう受け止めたかは 
だいだい想像がつきます。

それを唱和するだけでなく 
繰り返されちったというのが…。

酔っ払いがわあわあ繰り返すのを聞いて 
詠んだ本人 なんとなく
おれ…やっちまったかも…と
恥ずかしくなったかな。

道長さんは自分ちの歌集なんかも
編纂してるし 一応歌人でもあったので。

藤原本家筋の嫡流である実資さんとこより 
傍流だけど自分の方が
ずっと出世したもんねーー
という気持ちもあったのでしょうね。

いい気になっているから 
有職故実に詳しく学者でもあった
実資さんにちくりどころが 
がっつんとやられたのですよ。

そのあたりのこともあるし
思いっきり駄作なのがわかっているので

日記には書かないでおいて 
忘れようと思ったのに。

なかったことにしようと
思っていたのにさ…。くすくす…。
 
 

藤原一門で熾烈な出世争い

 
実資さんが自分の日記
「小右記」(おうき)
(「小野宮右大臣記」)に

ことの顛末をしっかり
書いちゃったもんだから 

実質的に後世にまで
残ってしまったのだそうです。

この実資さんはたいへん筋を
通す人だったそうで 政治家としての
道長さんのことは
とても評価しているのです。

そして道長さんはこのパーチーの10年後 
自らが建立した法成寺で62年の
生涯を閉じることになるのです。

若い頃から肝の据わった
豪胆な人柄だったそうで 

人がびびるようなことでも
平然とやってのける
タイプだったようです。

ただ初めから藤原家を背負って立つ
立場ではありませんでした。

お兄さんたちがいましたので 
こんな権力者になるとは
誰も想像しなかったかも。

二人の兄たちは お酒と流行り病で
あっという間に他界してしまい 

それなりの職務についていた
道長さんに チャンスが
転がり込んできた恰好ですかね。

もちろん従兄弟にあたる
伊周さんとかとは 
激しい権力闘争を繰り広げていますが。

けっこうむちゃくちゃをやらかして 
権力を手に入れ一族の盤石な基盤を
築いてきたので 少しは
反省したのかもしれませんね。

晩年は熱心に仏に
帰依したみたいですけれども…。

その財力で壮麗な寺院を建立し 
そこにこもるようになったそうです。

道長さんの華麗なる職歴に
「関白」はないのですが 
人々からは「御堂関白」と
呼ばれていました。

そもそも「関白」というのは
権のない名誉職
みたいなものだったようで

道長さんはあえて「関白」には
就かなかったみたいです。

ともあれ道長さんくらい
出世を究めれば やっぱり
この歌の心境になるのでしょうね。

この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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