およそ400年前 大阪城が炎に包まれた日「大阪夏の陣」

大阪夏の陣 障子窓

 
大阪夏の陣
 
今日 6月 4日は「大阪夏の陣」で 
難攻不落といわれた大阪城が炎に包まれ 
焼け落ちてしまった日です。

もっともお城全体が炎に包まれたのは
正確には夜になってからだったようで 

大阪城を包む炎が 夜の空を真っ赤に
染めるのを 遠く京の都からも
確認できたほどだったといいます。

豊臣方についた武将たちは ほとんど
見ることはなかったと思われる
大阪城の落城ですけれど 
想像しただけでも悲しいですね。

ただ大阪の街の混乱は屏風絵などになって 
かなり細かく残されています。

戦国時代において 参戦する(戦に出る)
ということは本人または
残された家族への恩賞が目的だったんですね。
 

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大阪城落城の報に 何を思ったか…

 
当然 首を上げることが最も高い恩賞に
繋がったのでしょうが

この戦は市街戦でもあったため 
非武装の市民もたくさんいたのでしょう。

そういう人たちを襲って偽首を取るなど
非道をやらかした奴やら

商家も多かったと思われますが
略奪の被害にあったりしていたようです。

○○家の家臣とかいう人たちは
そいうことはやらなかったと思いますが

戦乱のどさくさに紛れて 
ろくでもない奴らもいたと思われます。

普通 戦は開けた平野とか 山の方とか 
あまり人が多くない所で行われたんですけども 
家康さんたら大阪の街を壊しちゃったし…。

ここでまた意味のないもしもの妄想が
さく裂してしまうのですが

もしも徳川家康さんが 
もう少し早く亡くなっていたら
歴史はかなり変わっていたでしょうね。

この大阪夏の陣で宿敵を滅ぼした家康さんも 
安心したかのように翌年には亡くなっています。

1600年に関ヶ原の合戦で勝利し 
1603年には征夷大将軍に任ぜられて
江戸に幕府を開きました。

私の妄想はこの江戸幕府を開いたあたりで 
家康さんがぽっくり逝っちゃってたら

そのあとの歴史がずいぶん違うものに
なっていただろうなあと。

秀頼さんもまだほんの子供だったし 
秀吉恩顧の武将たちも幾人かは
まだ現役だったとことでしょう。

こんなことを言っちゃあナンですが 
秀忠さんに諸国の大名たちを抑える技量が
あったとは到底思えないですので… 

そうなると諸大名たちも大人しく江戸幕府に
従っていたかどうかわかりませんよね。

少なくとも豊臣が滅ぶことはなかったのでは
ないかなと思うのだけれど…。

あれ…そうなると真田さんとことか
活躍の場がなくなっちゃって
名も知れぬ地方の大名だったりするのかな…。

まだ戦国時代が続いていたりして… 
その上江戸時代がないことになるかも…。

それはそれでいろいろと不安だな。

そういえば何だか最近では 
合戦に勝った者がすぐに幕府を開いたような

たとえば私たちは
「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」
と覚えましたが

源平の争いに決着がついたのが
1185年だから 鎌倉時代はここからだ
みたいな言われ方をしていると聞きました。

これは大きな間違いですので 注意してくださいね。

幕府を開くことができるのは
征夷大将軍に任ぜられた人だけで 

その征夷大将軍を任ずることが
できるのは天皇だけです。

戦に勝ったから幕府を開けた
わけではありませんから ご注意を。
おっとまたもや横道。
 
 

豊臣家を滅ぼしたかった真の理由は…?

 
家康さんは名実ともに天下統一を果たしたけれど 
大阪に豊臣がある限り 徳川の世が
脅かされると思っていたのかな。

それとも豊臣が臣下に下らないことが
許せなかったのかな。

自分が臣下の立場から下剋上を
成し遂げたので 仮に豊臣が
臣下に下ったとしても 

自分と同じ野望を持たないという
保証はどこにもないわけで 
実は それが一番怖かったのかもしれません。

ひょっとすると征夷大将軍になった
家康さん自身が 生前の秀吉さんへ
臣下の礼をとったことがある 

そのこと自体を無かったことに
したかったとか…?

あるいは…勝者として敗者を完膚なきまでに
叩きのめす姿を見せることで

諸大名たちの野心も芽のうちに
摘み取っておこうという目論見もあったのかな。

武力によって分捕ったものは 
大抵武力によって分捕り返されるものです。

もしかすると読書家で勉強家だった家康さんは 
このことに気が付いていたかも…。

盤石な基盤を作るには 
力でねじ伏せる必要もあったでしょうし…
何事も最初が肝心だからねえ。

この時代よりもはるか昔に
日本が捨てた方法だったのに 

長い時間が経ち 人心が乱れた
戦国の世だったゆえ 

大陸の方に興った諸外国が繰り返してきた
修羅の世の轍を 日本も踏むことに
なってしまいましたね。 

この時 日本は世界一の
銃器大国だったといわれます。

ともあれ稀代の戦略家でもあった
家康さんだから 時間をかけてじわじわと
豊臣方を追い詰めていったんでしょうね。 

どうすればそれと気付かれずに
秀吉さんの築いたものを分捕れるか…

奪取するにはどうしたらいいか…
そのあたりを中心に策を弄してきたのかな。

あまり好きでなかった信長さんが発眼して
基礎を築いた「天下統一」という夢を 

ものの見事に手中に収め 
秀吉さんが形を整えてくれたのだから 

後の総仕上げは隙を見てかすめ取ればいい…否 
すでに役目を終えた存在は ただ目障りなだけ。

目の上のたんこぶで 目障りな存在ならば 
排除するのみ…。

たぶん初めから…天下を手中に収めた時から 
豊臣を滅ぼす気でいたと思います。

つくづく敵に回したくない相手だわあ。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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