8月21日、1192いいくにつくろう鎌倉幕府

鎌倉幕府 開かれる 障子窓

 
鎌倉幕府 開かれる
 
今日は源頼朝さんが征夷大将軍に任ぜられ 
鎌倉幕府を開いた いわば 鎌倉幕府の
誕生日のようなものです。

研究者の先生方は専門家でいらっしゃるので 
知り過ぎていて あれこれ悩まれるのでは
ないかと思ったりしますが。(笑)

幕府ってものの定義から入っちゃうと 
物事が無駄にややこしく
小難しくなるのかもしれませんが…。

でもね幕府を開くことができるのは 
征夷大将軍だけなんでしょ?

この立場って必要なら軍勢を動かす
命令出してもいいよ?という
お墨付きの意味もあるんですよね?

頼朝さんを征夷大将軍に任命するからねという 
宣下を受けたのなら その時が
幕府の始まりではないのでしょうか?
 

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日本はずっと天皇を頂く国でしたから

 
平家とカタがつく前から関東の方で 
いろいろ始めていたから
幕府の成立はもっと前なんでないのとか 

宿敵平家を討ち果たした時が
鎌倉幕府の始まりでしょとか 
どうしてそうなるの?という
ご高説が多くなったとか…。むむむ…。

まるで諸外国の王朝打倒のような
イメージが強すぎますね。

基本的に日本はこの頃なら
さらにはっきりと 天皇を頂く国でした。

武士が力を誇示しながら徐々に
台頭して来ていましたし 都も様々な
勢力が入り混じって「乱」を
起こしたりなどしていました。

確かに武家が政権を掌握したのは 
平家の方が先だったし

昔の藤原氏のように自分の血筋から 
天皇を出したりして権勢をふるったから
そういう風に見てもいいと思うけれど…。

平清盛さんは太政大臣にはなりましたけども 
すぐ辞めてるし 征夷大将軍に
任ぜられたわけじゃないから 
幕府を開いていないしねえ。

平家の隆盛はほぼ清盛さん一人の
お仕事というか功績だし

時間的にも25年ほどの間だったし
家柄はいいけど 明らかに一代記なので…。

平治の乱で源氏を打ち破って 
棟梁を排しその子供たちを都から
はるか遠く 関東の奥地へ
追いやることに成功しました。

彼らの振る舞いからは 自分たちは
武家だけど貴族のようになりたかったんだ 
みたいに見えちゃうんだけど… 気のせいかな?

武家として自分たちで政治の仕組みや
決まり事を作って 政を行い
国を治めていくという感じではなく 

貴族の仲間に入れてもらい
既得権益を専横したかっただけ
みたいな感じです。(ちょっと言い過ぎ?)

「武」というよりは お公家さん的な
振る舞いに見えるのです。

権力へは執着したけれど「武家」
としての顔はほとんど見えません。

日宋貿易で日本に貨幣をもたらしましたけど 
本当のこというと自分の所へ 
一番たくさん溜めこんでいたんじゃないの?

やってることが 平安中期の
藤原氏と同じなんですね。

自分たち一族で政をほぼ手中に収めて 
娘を天皇家に嫁がせて 外戚として
さらに権力の専横を図るという 

すべて我田引水で 自分たちだけがよければ
それでいいみたいな…

人間というものは 
ある程度いく所まで行くと 同じような
考えに陥るものなのでしょうかねえ?

政は誰のためのものかという
視点が欠落しているというか…。

そもそも自分たちの立ち位置を固めようと 
必死だった様子もうかがえるので

政を私(わたくし)することは
当然と思っていたのかもしれませんね。

白河法皇からこっちの天皇家も
「院政」なる荒業でもって 

引退したはず人が
権力を持ち続けるとか 
ややこしいことをやらかしていました。 

本来なら一人の天皇から公家衆に
政を任せて…命令系統は
ひとつだったはずなのに

いわば「頭」がいくつもある状態に
なってしまっていたんですよね。

まあ結局は後白河さんに
収斂されてくるのですけれども。

そういう「頭」がいくつもある状態は
「武力」を持つ者が忍び込むというか

味方に付く相手によっては 
こちらに有利に働くこともあるので 

隙をついて 上手く立ち回るには 
もってこいの状態だったと
いえるかもしれません。

武家が社会の中で 地位を固める
重要な時期でもあったので

雲の上の人たちと
ごたごたが絶えない状態で 

たいへんだったと思うけど
当然のことながら ある一族だけが
美味しい思いをするのは

回りからのねたみを買うし
必然的に批判にも晒されるわけです。

だから結果的には
「平家に非ずんば人に非ず」に
表れているように

平家を悪く言うんじゃねえよ的な
恐怖政治っぽい特色が
出てきたのでは…?
 
 

征夷大将軍の任命は 天皇だけのお仕事

 
頼朝さんもわりと早く
亡くなっちゃったからねえ 

幕府の基礎を 源さんとこでしっかり
固める時間がなかったのが 
とても惜しまれますよね。

征夷大将軍に任命されて
たった7年でしたからねえ…。

すっかり北条家に乗っ取られちゃった
感じのする鎌倉幕府ですけれども

ちゃんと150年続きましたし
「執権」というのは
れっきとした役職でした。 

世襲は時代が進むほど 
悲しいことになる
傾向がありますけれど 

これはなにも鎌倉幕府に 
限ったことではないですよね。

しっかりと「武家」が政治を
取り仕切ることになった鎌倉幕府は

頼朝さんが 天皇から
征夷大将軍に任ぜられた年をもって 
開かれたとするべきでしょう。 

宣下とは天皇だけが発することのできる 
日本国の公文書であり 

征夷大将軍の任命は天皇だけが
できることなのですから。

研究者さんともあろう方々が 
あまり無茶を言っては困りますね。

あったことをあったままに
記録し後世に残す 

それが日本の歴史のあり方で
後世の考え方の違いなどで 

捻じ曲げられるようなことが
あってはなりません。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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