今日は戦国武将 浅井長政が亡くなった日です

浅井長政忌 障子窓

 
浅井長政忌
 
…というタイトルですが 実は
1日遅れの記事になってしまいました。

浅井長政という戦国武将はご存知でしょうか。

そう信長さんの美人の妹 お市の方を
お嫁さんにした果報者でしたね。

肖像画の掛け軸では えらく
おっさんみたいに
描かれていますけれど

亡くなった時は まだ28歳(!)
だったんですよ。

戦国時代の小さな大名は 
みんなどこも同じような
緊張状態でいたのだと
思いますけれども 浅井氏も

君主と呼んでいた六角氏に
アタマを押さえつけられている状態でした。

実は長政さんは生母と共に 六角氏に
人質に取られていたとも伝わります。
 

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細かい勢力が あちらこちらで小競り合い

 
長政さんも元服と同時に 
賢政と名乗らされたし 意に沿わぬ
縁組をさせられたりしていました。

長政さんのお父さんは六角氏と
「外交努力」をして
均衡を保っていたのですが 

この姿勢は
主に古株の家臣たちから見ると
「弱腰」に見えたようで
かなり不満を募らせていたみたいです。

たった15歳の嫡男長政さんを旗印に 
一発かましたくて 長政さんの
お父さんに対して蟄居を迫ったそうです。 

こんなことって可能だったんですね。 

そんなわけで 長政さんは
半ば強引に家督を継いじゃうという
大人の第一歩は
波乱の幕開けになったのです。
(これって継いだとは言わないよね)

ですが長政さんは若いけれど
上手に戦って 一応の勝利を収め 

六角氏に対して 少しは自由を
取り戻したようで 

名も新九郎に戻しましたし 
無理強いされたお嫁さんも
実家に帰ってもらっています。

1563年には六角さんとこで 
重臣の暗殺事件(!)がありまして

家臣の結束に綻びが
生じる事態となりました。 

中には六角氏を見限って 
長政さんとこに来てしまう人も出るなど

六角さんと長政さんは じっと
にらみ合ってこう着状態に陥りました。

で、この時の大きな勢力のひとつ
信長さんは 岐阜の斉藤さんと 
やっぱりこう着状態に陥っていて 
これを何とか打破しようと画策。 

長政さんに使者を遣わして 
ねえねえ手ぇ組まない?と打診してきました。

これに対して長政さんとこは
家臣たちが賛否両論になりました。

理由は長政さんのお父さんは 
昔から朝倉さんと仲良しだったのですが

その朝倉さんと信長さんは
敵対していたからです。

どうすりゃいいだい…と
いうことだったようです。

(でもさあ お父さんには
強引に隠居してもらった
んじゃなかったっけ?)

結局 長政さんは信長さんの
申し出を受け入れ その証しに(?)

戦国時代一の美女 お市の方を
お嫁さんに迎えます。

長政さんよりか少し年が大きくて 
姉さん女房だったみたいですね。

戦国の覇者の妹だから 
お市さんばかりきれいだ 
美人だと言われますが

後の秀頼さんや千姫さんといった
孫の代になってからもわかるとおり

長政さんだって 立派な体躯の
若武者だったと想像できます。

もちろんお市さんが
きれいな人だったことは 
疑いようもないですけど。

結婚した時 信長さんの名前から 
長の字をもらって長政としたとか。

これで信長さんは京へ上る
経路を確保しました。

一石で二鳥も三鳥も狙って 
本当にしっかり叩き落とすという
ここらあたりが 信長さんの
さすがの策略なんですわ。

一方 越前にいた足利義昭さんは 
朝倉さんが何もしてくれないので
信長さんとこに身を寄せることにしました。
(この人も大概だよね…)

これを待っていたのでしょうか 
信長さんは上洛を開始し 途中で
通り道を塞いでいたのか 

ぐだぐだやってる
六角さんを蹴っ飛ばしたら
あっけなく小さく砕けてしまいました。
 
 

信長軍の通り道にいたのが運のつき?

 
というか六角さんてば長政さんが
信長さんと組んだの知らなかったのかな?

当時でも情報戦は盛んだったから 
知っていたと思うんだけどねえ…。

長政さんはおかげで六角さんとは
決着がついてよかったですね。

一応この時点では 信長さんに
感謝したでしょうねえ たぶん。

ところがこの後もっと
面倒なことが起こってしまいます。 

信長さんてば 朝倉さんには
何もしないから大丈夫だよとか言っといて 

いきなり がっしがし攻め込み
始めるじゃあないですか。

仕方ないので長政さんは
朝倉さんに味方することにします。

あれあれ…ここらあたりから 
長政さんと信長さんは 

手を組んだことなんて
すっかり無かったことみたいに
なっていますよね。

こういうことが 当たり前のように
起こっていたのが 戦国時代なんですね。

誰も信用できなくて 酷い時代だと
思うのは私だけでしょうか?

1572年 月を追って出来事が
列挙できるくらい 詳細な記録が
残ってますが 敵も味方も入り乱れて
「場外乱闘」が続きます。

そして翌年には長政さんの本拠地小谷城が 
信長さんの軍勢にぐるりと
取り囲まれてしまいます。 

一応 降伏のススメとかするのですが 
長政さんは全部断ってしまいます。

そしてお市さんと3人の娘たちを
信長さんの陣に送り返した後 

お父さんと共に自害して果て 
小谷城は炎に包まれ落城したのでした。

1573年 9月26日のことで 
長政さんは28歳でした。

まだとても若かったのに
もったいないことですね。

ですがこれが戦国武将たちの
身の処し方だったのかもしれません。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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