古代史の大事件 蘇我入鹿暗殺さる!

蘇我入鹿暗殺 障子窓

 
蘇我入鹿暗殺
 
645年の今日 6月12日は 
女性天皇を立てて やりたい放題を
やらかしていた蘇我入鹿が 

中大兄皇子や中臣鎌足らによって
天皇の御前で殺害された日なのです。

日本の古代史の中でも屈指の
血なまぐさい事件ですが

後世に描かれた絵とかも
相当な想像力ですよ。

ウィキペディアとか見ると
右側に載ってますけど

首がぶっ飛んでますし「後世の絵師、
見てきたような場面描き」ですね。

大昔 私が見た教科書にも載ってたと
記憶しています。

センセーショナルな描き方ですよね。

実際には御簾のずっと奥ーーぅの
方ですけども 天皇がお出ましだったとか。

よかったんでしょうか?
こんなシーンをお見せして…???
 

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入鹿を誘い出すには大袈裟な舞台が必要だった?

 
韓人(からびと)が謁見するとかいう
ことだったようですが 

本当にそんなお客が
来ていたのかすら怪しく思えます。

そういう口実でもないと 蘇我入鹿は
宮廷に出仕しなかったのでは…?

まるで自分の屋敷が宮廷のような
振る舞いだったと言いますからねえ。

政治的な暗殺事件ですけれど 
実行犯が皇子とか重臣とかで
クーデターという表現もされていますね。

ですが実際この事件直後に 中大兄皇子が
天皇に即位されたわけではありませんし

この後でもけっこうごたごたが続いて 
ようやく天智天皇として
即位されましたからねえ…。 

クーデターというならちょっとタイムラグが
大きいような気がしないでもない。

クーデターというのは
「政権奪取」そのものだと思うので…。

後世の研究者さんたちもいろいろな
意見があって 悩んじゃってますがな。

まあそのごたごたの間 
呼称こそ「皇太子」でしたが 

事実上 政務を執っていましたし 
天皇のようなものではありましたが。

中大兄皇子を旗印に 保守派筆頭の
中臣氏が唆(そそのか)して

やらかしたようなものだから 
クーデターとも言えるのかもしれませんな。

推古天皇が崩御された後 
天皇を立てるにあたって

先にちょっかいを出してきたのは
蘇我氏の方だったんですよね。

もともと大きな力を持っていたのに 
なんて欲張りな天皇の地位も含めて 
私(わたくし)したかったんでしょうね。

一時は豪族や貴族たちが朝廷ではなく 
蘇我氏の屋敷に集まって
そこが朝廷みたいになってたとか 

自分が押す皇子を天皇にしようと
敵対する豪族を次々に滅ぼしたりと 
やりたい放題。

中国の後漢に登場した極悪非道の輩と
同じだと言われちゃったりしてるし。

まあ…蘇我氏は間違いなく大陸系だから 
血は争えないのかもしれないですよ。

だから仏教のような新しい考え方を 
がんがん持ち込んできたんですね。

聖徳太子の息子が天皇になっては 
有能過ぎて太刀打ちできないと踏んで

山背大兄王の館を焼き討ちしたよね、
自分の従兄弟とその家族なのにさ。

とても近い一族なのに 国の安寧を願って
仏教に帰依した聖徳太子とは
どえらい違いだわさ。 

高い地位にいるくせに
我利に走るのは最低だよね。

さすがにこのやらかしは 
入鹿の親父蝦夷に
「ちょっとやり過ぎだろ」
と思わせたらしいけど 

この子にしてこの親ありだから 
どうだかね。
 
 

この時代は大なり小なり 権力闘争

 
そんな蘇我氏の隆盛を
苦々しく思っていたのが 

中臣鎌子で こちらの一族は 
昔から神祇だったんですね 
つまり保守派なわけです。

まんまと新興宗教に入り込まれちゃって 
苦々しく思っていたのでしょう。

出来るだけ早く取り除かないと 
取り返しのつかないことになると

自分たちの望みを叶えてくれそうな皇子を
あれこれ見定めていたのかな。

当時は皇子が大勢いましたけど 
その中で天皇になれるのは一人ですもの。

どの皇子につくかで その一族の富と
地位が決まって来るので 

血縁に頼らないなら 人材の選択は
最重要課題だったことでしょう。

蘇我氏は古い時代から
力のあった豪族だそうですが 

渡来系は権力者に
取り入るのが上手いのか 

あるいは権力者に
のし上がるのが上手いのか
わかりませんけど その両方かな。

たぶん目的のためには手段を択ばず まい進し 
がっつりと地位を築いたのでしょうね。

それはそれで優れた処世術と
いえるでしょうが 
やっぱりやり過ぎはよろしくない。

聖徳太子のような人物も輩出したのに 
欲をかくからそういうことになるの。

入鹿が成敗された翌日 親父さんも自害して 
蘇我氏に群がっていた烏合の衆も
あっという間に霧散したらしいですよ。

欲に目がくらんだ奴には同じレベルの
輩が群がるものですからね。

分かり易くていいですけど。

本当の殺し合いになる権力闘争が
まだあった時代でしたから 

こういうことから学習を重ねて 
天皇のあり方を固めていったのでしょう。

そこらあたりが大陸の歴史とは
違うのですね。

人間のやることですから どこの誰が
やっても実は大差はないと思うのです。

しかし学習するということは 
実際に何かに生かされ形になること 

あるいは 生かされた結果が
残らなければ何もなりません。

歴史の流れを俯瞰してみると 
学習できているかどうか
よくわかりますね。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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