今日 7月30日は明治天皇が崩御された 明治最後の日

明治最後の日 障子窓

 
明治最後の日
 
今日 7月30日は明治天皇が崩御された日です。

記録を見ると午前0時43分だったと
されていますが いろいろな事情で 

実際に崩御された時間よりも 2時間ほど
後の数字が発表されたようです。

よく昭和を激動の時代と表現されますが 
明治という時代も大変な激動を
潜り抜けてきた時代だと思います。

だって武士さんたちが行ってきた政権を 
急に朝廷に奉還されて 

ずっとずっと昔のように 天皇が
政に関わりを持つようになり

かつ政治を行うのは 人々の代表と
いうことになったんですから。
 

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例を見ない静かな社会変革

 
しつこいようですが 欧米では
これを膨大な流血と破壊行為を伴って

支配者から もぎ取ったというか
勝ち取ったんですよね。 

ですが日本の場合は 天皇から
武家が征夷大将軍の任命を受ける形で
政治の実権をずーーっと
委任されてきていました。

だから最期の将軍徳川慶喜さんは 
即位されて間もない
明治天皇に大政奉還しますと
申し上げただけなんですよ、
本当にどえらい違いですよね。

天皇に申し上げることを
「奏上(そうじょう)する」というんですが

本当にただ言っただけだし 
陛下もそれをご了承なさいました。

「言霊の幸(さきわ)う国」ならではですね。

少し離れたところから 固唾をのんで
日本の動向を見守っていた列強は

流血の戦闘行為で 支配者を打ち倒さないと
「権利」を取り戻せなかった あるいは

そういうことしかできなかった
歴史を持つ人々だったので

「言っただけ」で変えられて
しまうことが理解できなかったでしょう。

恐らく内乱に乗じて 内政に干渉することを
目論んでいたと思いますし

各方面に武器を売るなどして 
一儲けを企んでいたに違いないのです。

ところが 大政奉還に関しては 
大きな混乱もなく もともと
天皇中心の国でしたけれども 

政治の方にも 関わっていただきますね
という方向で すんなりと
カタがついてしまいました。

この点については 京都附近での
小競り合いが全国に拡大すれば…などと
思っていたであろう列強の思惑が 
大きく外れたと思います。

もちろん既存の社会のシステムが
根底から崩されてしまったので 後から
問題がたくさん出てきましたが 

明治天皇が即位されたのは 実はまだ
元服前だったそうで 若いうちから
いろいろとご苦労されたと思います。

普段の生活は質素にされ 
自らを厳しく律する方だったようで

どんなに寒い時でも 暖房は火鉢が一つ、
どんなに暑い時でも軍服を
きちんとお召しになって 
執務されていらしたそうです。

聖武天皇がお肉を食べることを禁じて以来 
宮中では牛肉と牛乳を食さない
習わしでしたが 御自ら洋食をとられ
国民にお示しになったそうです。

また 散髪脱刀令が公布されたのち 
天皇が西洋風に散髪されたので
それに倣う庶民が増えたのだそうです。

大変記憶力に優れておいでだったそうで 
書類に目を通すと直す箇所など
全部覚えていて 次にご覧になった時 
直っていないと指摘されたとか。

伊藤博文さんなどは 
ごまかしがきかないと困っていたようです。

世の中が激震を食らって不安定になったり 
人心に不安が広がる時ほど
トップに立った人の
力量が試されますからねえ。

宇多天皇の時からだというので 
ざっくり1200年くらいでしょうか

天皇が外国人と直にお会いになることは 
なかったそうですが(゜o゜)

明治天皇は開国しちまったので 
何人もの外国人と直に面談されています。

写真がおきらいでいらしたようで 
私たちもよく見かける有名な御真影は

お雇い外国人絵師が描いたコンテ画
(コンテという画材で描いた肖像画)を
写真撮影したものだそうです。

和歌を詠まれるのがお好きで 
残された御製(天皇が自ら詠まれた和歌)は
9万3千首を超えるそうです。

刀剣を集めるのも趣味だったそうで 
それを聞いてか 各藩から献上が相次ぎ

おかげで名品・名刀の
海外流出を防げたということです。
 
 

激動の明治が静かに終わる

 
社会システムが急変したので 
それぞれのお殿さまたちも
大変だったと思いますが 

赤字経営だった藩などでは 
貴重な宝物がかなり外国へ
流出してしまったんですよね…。 

本当に価値を理解しているのかどうか 
わからないような連中の所へ行ってしまって 
ご先祖さまが悲しんでいらっしゃいますよ。

明治天皇は 晩年には糖尿を患われて
おいでだったそうで 強い眠気に
襲われることがあり 枢密院の会議中に
眠ってしまわれることもあったとか。

激動の時代をして数々の功績を残され 
人々に慕われる名君でいらしたわけで

日本の近代化にとっても 
ありがたい存在だったのですね。

激動の明治で基礎・基盤をしっかり
作ってもらったので 今があります。

明治天皇は東京で崩御されましたが 
御陵(みささぎ)は京都の伏見にあります。

御霊柩列車にて東海道本線を経由して 
懐かしい京の都へお帰りになりました。

ちなみに話題に上がることが多くなった
「教育勅語」は明治天皇の詔なんですよ。

個人の見解(現代語に
したものを読んだだけ)ですが 

内容は受け取る側の
考え方次第だと思いますし 

理念としては 大変に
素晴らしいものと感じます。

GHQは 日本でわざわざ法律を
作らせてまで禁止したくせに 

自国に持ち帰り 英訳して教育の
基本理念として使ってると聞いてますが…。

まあ…素性も知れない者たちが
寄り集まっただけのあの国では 

およそ考えもつかない 
立派な理念なので
うらやましかったんでしょうね。

でもどんなにうらやましくても 
自分たちにわかる言葉に翻訳しても
積み重ねた時間の厚みが違うのでねえ 

あの国が日本のようになるには
あと1000年はかかると思いますよ、
まあ がんばれ。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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