「大化の改新」で「元号」の誕生です

元号の日 祝日・記念日、○○の日

 
元号の日
 
西暦646年の今日 6月19日は「元号」が
「大化」になった日ですね。

それと同時に「元号」というものが
実用化された日でもあります。

今の「令和」までで
248号になるそうですよ。

「大化」以来脈々と続いているというか 
ころころよく変わったというか。
それはともかく。(^^;)

ざっくり1370年以上も
続いてる…\(◎o◎)/!

もお止められない 止まらない!

当時一豪族でしかなかったはずの蘇我氏が
まるで天皇のような振る舞いをし

朝廷に誰も出仕しない状態が続くなど 
4代にもわたってそれこそ国を

私(わたくし)するが如く 
やりたい放題をやらかしていたので

保守勢力によって実力排除されたのが
先日の「蘇我入鹿の暗殺」です。
 

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蘇我氏の専横を実力で阻止ししちゃった

 
「暗殺」にしては白昼堂々と それも
天皇の御前で しかも
下手人は…もにょもにょ…。

馬子さんの時に 物部氏と本気でやりあって
勝利を収めて以来 ちょっとやらかし
過ぎちゃった感じですね。

同じ一族から出た聖徳太子は みんなで
力を合わせて行こうねって言ったのにさ。

大変過激なやり方でしたが 
当時ではそんなに珍しくもなかったのかな…。

豪族や貴族に対する引き締めと中央集権へ
もっていく体制作りを断行したのですね。

入鹿暗殺の直後に退位した皇極天皇にかわり 
弟の軽皇子が即位して孝徳天皇になり 
中大兄皇子と共に群臣に向かって

「帝道は唯一である」、
「暴逆(蘇我氏)は誅した。
これより後は君に二政なし、
臣に二朝なし」と
演説していることからも伺えますね。

暗殺の実行犯が堂々と皇太子に収まって 
実際に執務をするとか
すごいなあと思うのですよ。(私だけかな?)

やっぱりそれは中大兄皇子が
本物の皇子だということと 

中臣氏の他にも蘇我氏の専横に
反対する人たちもいたってことですね。

時間とお金をかけて隋や唐といった
先進国から国作りの形態などを学んで 
ようやく整い始めたのに 

臣下の一豪族にいいようにされては 
朝廷の威信が面目丸つぶれですもんねえ。

暗殺当日の記事でも触れましたが 
お手本にした国は数百年単位で
「こういうこと」を
繰り返していたんですよねえ 

そんなところは真似しなくて
いいことだったんですが…。

なにしろその国を構成している人間と 
同じ血を引く人間が臣下に収まってて
専横をやらかしたもんで 

場所と時間が違っても
やることと言ったらまったく…。

ところでひとつ「ほえ?」と
思ったことがあるのですが。

入鹿暗殺の時に 現場から慌てて逃げ帰った
入鹿のいとこの古人大兄皇子は

「韓人(からびと)が入鹿を殺した。
私は心が痛い」とか告げていて

実行犯が中大兄皇子と
中臣鎌子(鎌足)だって
言ってないんですね。

この人の立場なら犯人たちの顔を
知ってるはずなのに…?

外国人のせいにしてるけど…
んなこと言ったら普通国際問題になるよね?

現場は三韓の使者の来日して
三国の調とかいう
儀式をやってたはずなのですが

ひょっとして…そうか!
三韓の使者ってもしかすると・・・・?!

ともあれ中大兄皇子は 事実上
政治の実権を握ったわけです。

公地公民制とか 租・庸・調とか 
初めて首都を決めるとか 班田収受とか

歴史の教科書にマーカーで
印つけませんでした?^^
 
 

「大化」そのものは わりと短い

 
過激な展開から始まった
「大化の改新」の元号
「大化」ですけれど意外と短くて
たった5年間しか使われませんでした。
(だから元号をころころ変えるなと…)

そして逃げ帰った古人大兄皇子さんですが 
やがて謀反を疑われて処刑。

まあ入鹿のいとこでしたから 
恭順を示していても やっぱり疑いを
かけられちゃいますよね… 

政敵は根絶やしにしておかないと…。

天皇にすえた孝徳天皇とも
仲違いをしてしまい 

先に退いた皇極天皇が 
斉明天皇と名前を変えて
もう一度 帝位についたり…。
(数年単位で変えないでってば)

こちらは中大兄皇子からみれば 
実の母とその弟 つまり叔父ということ。

それぞれの思惑が複雑に入り組んで 
こういうことになったのでしょうが

たぶん実質的な政治権力を持っていたのは 
皇子の方だったと思うので

もうこうなると天皇さんが誰であっても 
あまり重要ではなかったのかもしれません。

有間皇子という人も謀反を
起こそうとしたとして処刑。(あちゃー)

自分の地位を脅かす存在には 
それなりの手を打つでしょうねえ。

何も殺さなくったっていいのにと思うのは 
現代の感覚なんでしょうね。

結構 政情的には不安定だったようですが 
中大兄皇子はまだ天皇に即位しません。

西暦662年の「白村江の戦い」では 
大軍を送りながら敗北を喫するなど 

強大な唐の脅威を感じ 防衛に力を
注ぐことになったりしています。

唐の軍事力はすごいものがあったと思いますが 
この時 日本から送られた軍というのは 

各地からの寄せ集めの状態で 
あまり統制が取れていなかったみたいです。

一説には 方言が強すぎて 
日本人同士なのに言葉が
通じなかったといわれています。

どんなに大軍でも統制が取れていないと
ただの烏合の衆ですからね。

結局 中大兄皇子は668年に
ようやく帝位につき 
天智天皇になります。

けっこう晩年になってからの
即位だったのですね。
(もお お願いだから…)

天智天皇に即位されてから
4年で崩御されていますが
46年の激動の生涯でした。

中央集権の黎明期でもありますし 
政敵を排除するのに
本気の殺し合いもありました。

権力を統合するとか 
政治的に安定させるとか 国の形や
統制を整えるとか そういうことに

流血事件がついて回るのは 
もちろん日本だけでなく
世界中で起こっていましたし 

人の世である以上 避けては通れない
道だったのかもしれません。

むしろ古い時代だけで 懲りて止めた
日本こそが稀有な 唯一のケースですよ。

「大化」という元号は短かったですが 
元号そのものはその後もずっと継続して
現在に至っていますから 
これからも続けましょ!(笑)
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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