7月 9日 杉原千畝領事、「命のビザ」の発行を始める

杉原千畝 命のビザ 忘れ得ぬ出来事

 
杉原千畝 命のビザ
 
1940年の 7月は隣国ポーランドが
ナチスドイツに占領されており

リトアニアへ逃れてきた大勢の避難者や
ユダヤ系の人々が いろいろな国の
大使館や領事館へ殺到し
ビザの発給を待っている状態でした。

ところがこのリトアニアもソ連の占領下にあり 
各国の大使館などは 閉鎖するように
要求されていたのだそうです。

そんな中でリトアニアの
在カウナス日本領事館は まだ業務を
続行していましたので 
噂をききつけ人々が殺到したのです。

国際情勢に黒い雲が立ち始めていたころ 
遠く離れた異国の地に仕事とはいえ

赴任していたなんて どんなに
心細い思いをしたことでしょう。
 

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迫りくる戦火に各国の領事さんたちは…

 
外国ですよ? 非常事態には 
何をされるか分かりませんからねえ。

身の安全が保障されない所なんて 
生きた心地もしないですよ。

欧州は陸続きで 進撃するナチスの勢いに
なすすべもない状態でした。

どの国も戦火を逃れたい非戦闘員が
多くいましたが行く場所がないのです。

特にナチスのあからさまな迫害の包囲網で
ユダヤの人々は逃げ場を失っており 

シベリア鉄道で東の果てへ逃げるしか 
生きる手立てがない状態でした。

ほとんどの人が戦火と迫害に追われ 
着の身着のままで逃れてきた人たちばかりです。

杉原さんは敬虔なクリスチャンでも
あったそうなので 目の前で助けを求める
多くの人たちを見捨てることは
出来なかったのでしょう。

そのころ日本の外務省からは 
正規の手続きが済まない人に 
ビザを発給すんなよ、
日本は外国の難民を受け入れる余裕なんて
ないんだから 発給しちゃだめだからね
わかったね?という通達が来ていました。

確かに日本もイロイロと
忙しい時でしたからねえ…

少し前には関東軍がやらかして 大陸で
火の手がくすぶり始めちゃっていましたし 

英国や米国がぶりぶり言って
険悪な状態でしたし… 

とにかく欧州の難民なんて
受け入れられるはずが
なかったのは事実でしょうし 
実際受け入れる義理は無かったんです。

でもその通達文の中に
「通過するならいいけどね」
という一文があったそうで(◎。◎)
杉原さんは命令をか~なり拡大解釈する形で
ビザの発給に踏み切ったのです。

万年筆が壊れ 手書きでしたので
手が痛くなって 奥さんに
マッサージをしてもらいながらも 
懸命に発給を続ける杉原さん。

その姿を見ていたポーランドの情報将校が 
文面の一部ををゴム印にして 一部だけ
書くようにしたらいいよといって 
ゴム印を作ってくれたのだそうです。

余所の国の領事も杉原さんと
同じようなことをしたらしくて

ゴム印の文面は英語に訳した
まねっこだったようです。

目の前で助けを求める人々に対して 
何もできない 術を持たない
一般の人とは違い 彼らを文書一枚で
救える立場だったら 杉原さんだけでなく

どこの国の領事さんでも 同じように
助けてあげようと思ったと思います。

ただ 実行できる量が限られて
しまっただけだと思います。

文面はどちらも 当時のオランダ領へ
行きたいんで通らせてねというもの。

ソ連や日本政府から再三退去命令が
出ていたにも関わらず 不眠不休で1ヶ月間

ビザを発給し続けた杉原さんでしたが 
とうとう領事館を閉鎖することになりました。

移動のためホテルへ移っても ベルリン行きの
列車に乗ってもまだ発給を続けたのです。

列車が動き出してしまい 
ついに書くことができなくなりました。

―「許して下さい、私にはもう書けない。
みなさんのご無事を祈っています。」と
千畝が頭を下げると、
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。
もう一度あなたにお会いしますよ!」という
叫び声があがった。― 
           ―ウィキペディアより―

この時叫んだ人物とは戦後に
喜びの再会を果たしています。
 
 

名誉の回復は遅かったけれど…

 
そして彼は杉原さんが自分たちに
発給したビザは無許可だったこと 

そのために帰国後 外務省を追われ
失職したことを知って大変驚いたそうです。

たぶん普通の仕事をするように 
普段と変わりなく淡々としかも堂々と

ビザの発給をする姿を見ていたので 
杉原さんの独断だったとは
思わなかったのでしょう。

公務員としての服務規程に
違反してしまった杉原さんは 

日本の人たちからは
非難されたかもしれませんが 

ご本人は人として正しいと
信じて行った自分の行動に
一点の曇りも感じることは
なかったと思います。

帰国すれば違反で失職することも
承知の上での決断だったのですから。

恐らく自分のことよりも あの時ビザを
発給してやれなかった多くの人たちのことを 
心から案じていたのではないかなと思うのです。

そういう人だからこそ捨て身の行動が
できたのだろうと思いますし 

実際に多くの命を救うことが
できたのだと思います。

私ね S・スピルバーグ監督は大好きで
夢中で見ていた時期もあったんですよ。

「シンドラーのリスト」という作品については 
どうして「シンドラー」を選んだのだろうと
不思議だったんですね。 

あの人ってユダヤの人たちを 
自分の工場で安く こき使おうとかいう
魂胆で助けたんだよね、

何の犠牲も払ってないし 
少しも人道的じゃないのに

何だか無駄に立派な人物みたいに
描かれているような気がしてねえ。

そういう人やエピソードを探していたんなら 
絶対杉原千畝さんのことだって 

チラ見くらいしたはずなのに 
どうしてこちらを選ばなかったのかなあ?

彼もユダヤ系なんだから 杉原さんのこと
知らないわけがないんだけど。

スピルバーグとは思えない選択で
がっかりだったことだけ覚えてる。(笑)

まあ米国資本だし 米国リサーチだからねえ。

こんな日本人が実在したとか取り上げたり
宣伝したくなかった「力」が
働いたんだろうけど。

もっとも同じ日本人だって
人道的な見地からやったことなのに 

職務規定違反を理由に
クビにしたりしたからねえ 

結果的にはそういう「力」と
同じことをやらかしてるわな。

名誉の回復にだいぶ時間は
経ってしまったけれど 

自分の中の正しい心に
従った勇気ある行動は 
ずっと語り継がれることでしょう。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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