今日 7月11日は「真珠記念日」

真珠記念日 祝日・記念日、○○の日

 
真珠記念日
 
今日は「真珠記念日」だそうです。

あのミキモトの創立者 御木本幸吉さんが
真珠を養殖しようと実験研究を続ける中 

1893年の今日、7月11日に
実験中のアコヤ貝の中に半円形の真珠が
ついているのを発見しました。

これを記念した「真珠記念日」なのです。

当時すでにアコヤ貝の中に
核になるものを入れて育てることは
知られていたんだそうです。

最初は中国で行われた記録があるそうで 
仏像真珠というのだそうです。

人が作った球を貝の中に入れて育てる方法で 
貝付き真珠の一種だそうです。

これを清国に来ていた
仏人神父が本国に報告し 

英国人もロンドンの芸術協会に
報告するなどして 先に欧州で
研究や実験が行われていたんですって。

でも安定的な産出に
つながっていなかったんですね。
 

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上品で魅惑的な海の宝石 真珠

 
当然かもしれませんよ、アコヤ貝は
暖かい海が原産なので
欧州の冷涼な海では寒すぎて

真珠を作らせるどころか 
まず繁殖しないでしょうね。

生き物の営みを借りるという発想は 
欧州の人には無理ですから。

幸吉さんは お祖父さんもお父さんも
何か商売を興すことや改良したり
発明したりすることが得意だったそうで

そんな人たちの血を受け継いだためか
若いうちから新しいことを
始めたいと思っていたようです。

真珠がとても高値で
取引されていることを知って これだ!と。

海女さんたちが潜れば そこらへんに
ごろごろあるわけではなかったから

高価になるのは当然ですけれど そうなると
みんな真珠を取りたいと思うわけです。

そのために日本各地で
アコヤ貝の乱獲が進み 
絶滅寸前だったのだそうです。

研究を始めたのは
1890年のことでしたが 

やってみなければわからないことに
協力するのは せいぜい家族
親族くらいでしたけれども 

冒頭の発見で一気に
研究に弾みがついたのは 
言うまでもありません。

そして本当に仕事になる、
産業として可能になるのは 
1918年まで
待たなくてはなりませんでした。
 
 

産業化には販路も大切

 
さらに1921年 
欧州の宝石商が天然真珠と
見分けがつかない養殖真珠を

ニセモノだ 詐欺だと騒ぎ立て
訴訟騒ぎにまでなってしまいました。

これに対して幸吉さんたちは
英国や仏国の有名大学の教授たちを証人に
真っ向勝負で立ち向かい 

英国の商人は提訴を取り下げたそうですが
仏人がぶすぶす言って聞きません。

でも結局は1924年に 養殖も天然ものと
変わらないよという判決が出て
全面勝訴を勝ち取りました。よっしゃー!

当たり前ですよね 
自然と同じ方法で育てているんだから。

悔しかったら自分たちで
宝石を作り出してみろってんだ! 

ったく白人ときたら自分たちこそ 
ただ同然で掘らせた原石を分捕っては

不明瞭で不可解な値をつけて 
暴利をむさぼっていたくせに。

そういう商売ができないと見るや 
今度は賠償金を稼ごうとするんだから。 

付き合いにくいったらありゃしない。あーやだやだ。

養殖はむしろ核を入れたり
貝が生息する環境を整えたりと 

ただ海の底にいる貝を採って来るのとは
別の管理が必要なんだからね。 

その手間の分が 値段に
反映されるべきじゃあないんですか。

勝~ってうれしい花一匁♪

…そうそう真珠は取引単位が
「匁(もんめ)」なんですよねー。

ところでこの頃 天然真珠の産地はクウェートとか
中東の国々だったそうです。

そういえば中東の国々の
三日月形の短刀の鞘とかは 

とてもたくさんの真珠や宝石が
飾られていたよね…
とふと思ったりしました。

色も形も大きさも様々な
いかにも天然真珠
という感じでこれはこれで魅力的。

幸吉さんの大成功の裏では
こういった天然真珠の産地が
大きな打撃を受けたそうで 
何だかちょっぴり申し訳ない気がする…。

でも中東の国だって
ただぼんやりしてた訳じゃなくてですね 

真珠に代わる産業をということで 
渋々外国資本を受け入れ 
地面を掘ったら石油が出てきたんですと。(◎艸◎)

うわあうらや…いえ そ…それはそれで
すごく良かったんでないかい?

この燃える水は中東の国々を世界有数の
お金持ちの国にしてくれましたよね。

たぶん天然真珠よりか
ずっと国が潤ったと思います。
 
 

宝石を作り出すことに成功した

 
その後も幸吉さんは真珠が宝石の中心で
いられるように努力を重ねたそうです。

生前幸吉さんは明治天皇と昭和天皇と
お二人の帝に拝謁しています。

1909年 まだ完全に真珠の養殖には
至っていませんでしたが 御前で

「世界中の女性の首を真珠でしめて御覧に入れます」
と言い放ったとか。

また大東亜戦争後 日本各地を行幸された
昭和天皇にもお目にかかっています。

この時 幸吉さんは93歳でした。

経営者としての幸吉さんは月に1回 

ミキモトの従業員のみなさんと一緒に
鰻丼を食べる「どんぶり会」
というのを開いて
意見交換の場としていたそうです。

どうしてうなぎだったのかというと
「うなぎ上り」に
あやかるというゲン担ぎと

真珠の「天敵」であるうなぎを
食ってやるという目的があったとか。

うなぎが真珠の「天敵」なんて
初めて聞いたのですが 

アコヤ貝を研究するうち うなぎとの
関係に気がついたのかもしれませんね。

1954年 幸吉さんは
96歳の大往生を遂げました。

新しいことへの挑戦と研究
そしてそれらを産業として
きちんと機能させること

とても大切なことを
教えてくれていると思います。

今ではアコヤ貝の天敵 うなぎも養殖したいと
盛んに研究されていますね。

その他の水産資源も 出来るだけ人間が
口にする分は養殖にしていって
天然の資源を守るようにしてもらいたいです。

真珠が養殖と天然もので
きちんと価値を保っているように 

水産資源もただいただくばかりではなく 
しっかり管理をしていくべきだと思います。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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