今日は秀吉が出した「伴天連追放令」の覚書の日付

 
バテレン追放令
 
秀吉さんが「バテレン追放令」を発したのは 
正確には1587年(天正15年)
 5月19日のことです。

でも1933年(昭和8年)になって
伊勢神宮からこの「バテレン追放令」の
元になったらしい「覚書」
なるものが発見されました。

その日付が今日 5月18日に
なっていたものですから 
今日のネタにしてみました。^^

前日に草案がまとめられて 
翌日には正式発表されている格好ですね。

今の感覚だと すごく急いで
お触れを出したような感じがしますけれど

伝達に若干の時間を要しただろうと
推測すれば これは普通かも。
 

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いやはや本当にヤバかったんですね

 
ウィキペディアなどによると 
正式に発せられた追放令と覚書では

語気を弱めたり 触れていないことや
丸ごと抜けてる部分など
いくつか違う点があって 

後の徳川幕府が出した
「禁教令」よりははるかに緩やかで 
禁止しているのは布教活動だけなのです。

もしかすると 秀吉さんが思っていた以上に 
キリシタンが多くて いたずらに刺激すると
まずいかも…と感じたのかもしれませんね。

同時に これ以上キリシタンを
のさばらせておくのは得策ではないと…。

交渉事が巧みでかつ 決断が早い
秀吉さんらしい行動だなと思いますね。

信長さんのやってたことを守って 
キリシタンに寛容だった秀吉さんでしたが

長崎を丸ごとバテレン基地にされたような
感じだったらしいので 九州征伐に行って 
びっくりしたと思います。

ま 一神教の持つ同調圧力を含めた
伝播力の強さなんて 知る由もなかったので 
事実上 野放しにしてしまったのでしょう。

ただ信長さんも手を焼きましたが 

宗教によって団結した民衆の手強さは 
秀吉さんも良く知っていたと思いますので 

一瞬でその脅威を理解する辺りは
やっぱりさすがだと思いますね。

宣教師たちは さほどの犠牲も抵抗もなく
入り込めたことで ちょっといい気になって
やり過ぎていたのではないでしょうか。

なんですか コエリョさんとやらは 
スペイン艦隊が自分の指揮下にあるような
態度を取ったとかで それを後に本国から
来ていた偉いさんに怒らりてますし。

マジで商人と組んで人身売買まで 
やらかしちまいましたからねえ。

日本の側でやらかした理由は 
鉄砲伝来以降「硝石」など国内では極端に
産出が少ない物質が欲しくて
自分の領民を売り飛ばしたのでしょう。

領民のみなさん 気の毒でしたねえ、
日本人は天皇の宝物だって言ってるでしょ?
わかっていらっしゃるのかしら? ああ?
この罰当たり領主どもが!

この頃の領主さんたちは 大陸で
繰り返されてきた動乱期の人々とほとんど
同じ思考になっていたんじゃないかと
思えちゃいます。くわばら くわばら。

ただイエズス会は悪い印象をぬぐい 
とりあえず既成事実を作るためだったのか

ポルトガルに 日本人の人身売買を
やめるよう再三 働きかけていたようです。 

で・す・が ま~ったく
止まりませんでしたからねえ。

ふふん 儲かりまくることなんだから 
絶対にやめるわけないですよ。

その豊かな商人たちから
お金を巻き上げてたのは
他ならぬ教会だったんですからね。

「バテレン追放令」は このコエリョさんに
会った直後に出されているのです。

宣教師だって人の子なので 色々な人が
いたでしょうから もしかすると
人たらしと呼ばれた秀吉さんと ソリが
合わなかったのかもしれませんね。ぷぷぷ…

そのころキリシタン大名のもとでは 
強引に改宗を迫ったり 信徒による
神社仏閣などの破壊行動とか
とても日本人とは思えない行動があったとか。

一神教の典型的な行動原理とはいえ 
ただただ迷惑な話です。

まあ…当時は乱世がようやく収まって 
あまり時間が経っていなかったし 人心は
まだ荒んだままだったのでしょうかね。

だから一神教が入り込むわ 
欲に目がくらんで 天皇の宝物を
勝手に売り飛ばすわと
やりたい放題になってしまったのです。
なんとも情けない。
 
 

さわらぬ神に祟りなし…ということで…

 
秀吉さんは堺の商人たちとも
深いつながりを持っていたとされています。

彼らから近隣諸国の様子を
伝え聞いていても不思議ではありません。

宣教師は布教を口実に入り込む
先遣隊であること、 

野放図な布教を許せば 
必ず塊になって楯突いてくること、 

その塊を足掛かりにさらに強大な
敵の上陸を許すことになること、

宣教師派遣から始まって 最終的には
武力による征服を目論んでいること。

これらは同時期に実際に南の島々で
起こった事実ですからね。

ただし最後の武力征服ですが 列強が
次々に諸国を植民地にしていたころ

日本はちょうど戦国時代だったこともあり 
大量の武器弾薬がありました。

実際当時の日本は数量的に世界一の武器を
保有する軍事大国だったのです。

本国から遠いという地理的条件もあって 
征服軍の輸送には限界があるので

宣教師たちは 日本征服は不可能とみて
あきらめるよう本国に進言しています。

欧州の国が先に出会ってきたどの国とも 
日本は違っていたのですね。

戦国時代がいい時代とは言い難いのですけど 
世界一の銃器大国だったことが

日本自身を守ることになったというのは 
面白い巡り合わせだなあと。

上記はいわゆる外交軍事面の脅威ですが 
為政者にとって人心掌握に長けた宗教ほど
目障りで面倒くさいものはありません。

排除するか取り込むかの二者択一しか
ありませんので 対処は急を要します。

経験的に宗教の面倒くささをよく知っていた
秀吉さんとしては 表向き

信教の自由は認めつつも これ以上の
バテレン宗教による蚕食は避ける
必要があると判断したのだと思います。

真に英断。ありがたや ありがたや。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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