今日 9月13日は 鼠小僧 次郎吉が処刑された日

鼠小僧 刑死 障子窓

 
鼠小僧 刑死
 
鼠小僧って 実在したんですね 
ちょっとびっくり。

ただお芝居や小説・ドラマに
なっているような「義賊」ではなく
「本当の盗人」だったみたいですけどね。

それが「義賊」のように言われたのは 
盗みに入る先は大名屋敷専門で 

しかも徒党を組まず 
一人で盗みに入るスタイルを
貫いていたのだとか。

それであたかも絶対的な権力に
立ち向かう者、みたいな
捉え方をされたようです。

恐らくは後年 それも
かなり好意的に解釈されて 
そうなっていった感じですね。

でも実際はもっと現実的だったようで 
大名屋敷は広くて 建物内には

男性がいる場所と女性しかいない場所が 
はっきりしていたのだそうです。
 

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鼠さんの仕事ぶり

 
お金がある場所は奥向きなので
女性ばかりのため たとえ発覚しても
逃げ易いというのが理由だったんでない?
との推測が有力みたい。

それに幕府に余計な疑惑を
持たれないためにも 
警備が手薄になりがちで

仮に被害にあったとしても 
体面を保つため
騒ぎ立てなかったらしいので。

そこそこにお金があって 
入り易くて逃げ易いなら 狙いますわな。

当時の大名さんは 泥棒に狙われ易くても 
公儀に目をつけられる方が 面倒だったので
避けたかったんですねえ、
いろいろと大変ですなあ。

本業は「鳶職」だったとされていて 
たいへん小柄な男性だったそうです。

「鼠賊白状記」なる自白調書が
ちゃんと残っているそうですよ。

それによると10歳くらいで
奉公に出されるも16歳で実家に戻りました。

その後鳶人足になったけれど 素行不良で
25歳の時 勘当されてしまいます。

そして賭博に手をだし 資金稼ぎのために
盗みに手を染めたのだとか。

典型的な転落人生を歩んでおりますねえ 
作り話ではないところが何とも…。

1823年以降 武家屋敷ばかり 
28か所32回の「仕事」をこなし

1825年土浦藩上屋敷に
忍び込んだところを 御用!となりました。

南町奉行所の取り調べに対して
「初犯だ~」(!)と切り抜けて
刺青の上 中追放の刑となりました。

いわゆる江戸10里四方所払いってやつです。

で、一時期は上方へ姿をくらましていましたが 
やがて親父さんを頼って
こっそり江戸に舞い戻ってきました。

その後およそ7年の間に 
やっぱり武家屋敷ばかり71ヶ所 
90回にわたり「仕事」をこなします。

そしてとうとう1832年の6月初旬、
上野国小幡藩屋敷で御用!となります。

今度は北町奉行所が取り調べました。

10年間に荒らしたお屋敷は95ヶ所 
仕事の回数は839回に及び 

盗んだお金は 総額3千両と白状しましたが 
きちんと覚えてないのもあったりして 

本当にそれだけだったのか 
真偽のほどは定かでないとか。

ただ捕まった時 次郎吉さんの住まい
(隠れ家?)には 家具らしい家具もなく
現金もなかったそうです。

華々しい「仕事」のわりには 本当に
何にもなかったようで「江戸っ子」らしく

宵越しの銭は持たなかったのかも
しれないですねえ。
 
 

鼠さんには極刑の沙汰が下りました

 
で、お裁きはというと市中引き回しの上 
獄門!と決定しました。

凶悪犯でもないのに極刑だったのは 
盗みに入られたお武家さんたちが 

ぐぬぬ…おのれ~っ 
ゆ・る・さ・ん!てな感じで 
怒っちゃったのかも。

武士の面目が丸つぶれだから 
絶対許さないでねって 裏から手を回して
極刑にすることで 見せしめに
したかったのかもしれません。

対処が緩いと 第二、第三の鼠小僧が
現れないとも限らないし…。

当時は「獄門」になるような重罪の場合は
「連座制」が適用されるのがふつうで 

近い親族はみんなお仕置きをされたのですが 
親父さんには勘当されていましたし 

奥さんなどにも離縁状を出していたとかで 
処罰されたのは次郎吉さんだけでした。

当時の市中引き回しというのは 
見物人というか野次馬が殺到する
半ば見世物状態だったのだそうです。

どうして賑わうんでしょうねえ?

で、どういうわけか みすぼらしい格好だと
人々から反感を買うかも…とか
ヘンな気を使って次郎吉さんも 
上等な着物を着せられ化粧までされたとか。

何だか気を遣う方向が違うような気が
しないでもないのですけれども…

鼠小僧は 当時にしてすでに 
大変な有名人だったそうなので 

市中引き回しは大盛況(?)
だったのかもしれませんね。

だからどうして賑わうの?

こういうのって どう捉えれば
いいのかわかりませ~ん。

江戸時代は「お天道さまが見ている」
という感覚で 一人ひとりが自らを律する
そういう時代だったのではないでしょうか。

どんな理由があろうと盗みはいけない 
まして人様の屋敷に
忍び込んで盗みを働くとか 

許されることではないと
みんなが理解していたのでしょう。

しかも次郎吉さんてば
博打で身を持ち崩したわけで
それゆえか本人も神妙でした。

その人生最後の瞬間を
大勢の衆目にさらされるのは 

取り返しのつかないことを
やらかしたんだという 
それ自体が罰の意味もあったのでしょう。

ここまでは分かるのですが 
死刑を待つ罪人に 上等な着物を着せたり 
化粧まで施すというのは 
ここらあたりがヘンなんですよねえ…。(笑)

ともあれ1832年 9月13日 
鼠小僧次郎吉は36年の
生涯を閉じたのでした。
 
お読みいただきまして ありがとうございました。
 

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